www.youtube.com2021年中山道六十九次車旅・自転車旅2 碓氷峠編
ここから、みらい三度笠の道中記ブログの始まりです。
かつて江戸っ子ならば誰もが知るであろう五街道への道中、特に東海道、中仙道は
現在でも有名である。
今回は江戸時代当時のルートで険しい中山道を、自転車で走る事が目的である。
言い訳無用でハードな林道を日本橋から京都まで走り抜け、現代人の忘れてしまった
江戸時代の先人達の生きた時代を、少しでも追体験したいのでルートは妥協の言い訳はしない。
世の中も少子高齢化で過疎が進み、景気も相変わらず30年位は良くなかった。
時代劇の番組も減り果たして今後も、約400年以上の歴史の五街道の保存は継承できるのか?
ハードなヒルクライムが苦手な私に脚力が残る内に行っておこうという事でもあるが、
あまり最近運動をしていないという、追い討ちをかけるみらい三度笠の体力の状態だ。
今回は2019年1月東京の日本橋へ三度笠(饅頭笠)持参で馳せ参じ、中山道中出陣の記念撮影をした。
スマホでポケモンゴー中のおじさん達こと、ポケおじも多く現実よりもバーチャルのネットの世界に転生したいようだ。
そんな日本橋だが中山道中をスタートさせるベテランのグループに出会い、五街道の情報を教えて貰えた。
私は東海道を自転車で2度、中仙道は車で1度の私などまだまだである。そう中山道は昨年2018年夏に車で草津宿まで
車道走行はしているが、やはり林道メインの中山道は山岳地帯がハードであるが自転車で走りきりたい。
その思いを胸にローマ建築のような縮尺の大きい、石作りの高層ビル街に変わった現在の日本橋の街を未来三度笠こと、この私はこの日は鋼の普段使いのクロモリ車で中山道を秋葉原方向に
出発をした。
江戸総鎮守の神田明神の坂を登り、東大で江戸時代から続く酒屋を左折し、とげ抜き地蔵までの道中は古の中仙道を感じさせる。
巣鴨のこの老人の街の庚申塚駅は元都電こと、新名称のサクラトラムは変だし長いから言い辛く
略せよと江戸っ子の私は思う。やはり相変わらず皆が都電と呼んでいる。
中山道中でよく設置してある庚申塚は常夜灯のように多く、その逸話を散見する事が多いが明治維新以降の廃仏毀釈ゆえにその民間信仰の話は、石碑には記載が途絶えている。
最初の中仙道の宿場町の板橋宿は、公武合体で将軍家茂に輿入れする為に中山道で来た公女和宮が滞在していたり新撰組局長近藤勇の終焉の地の墓所があり 、幕末の動乱期を歴史を残しながら今はウサギが商店街ゲートでおで迎えしてくれます。
環七を突っ切り国道17号線の大きな幹線道となった中山道を戸田橋方面まで進む 志村一里塚は400年も中山道の拡幅後も位置がずれていない、国史跡である。
戸田橋の荒川下流100mに戸田の渡しの史跡がある。
橋も掛けられない時代の名残である。確認を済まして、自転車は戸田橋を渡り跳んで埼玉県の蕨宿へ到着した。
此方も旧道中山道は江戸時代の趣を残した街で、以前江戸時代から続くウナギ屋で食べたが江戸っ子の私は関西風の
ウナギの焼き方焼きよりも、蒸し焼きの関東風が好みだ。
しかし今回は時間の都合でグルメも無く、シートポストバックに付けた三度笠がパラシュートじみた空気抵抗を発生させつつ、進むサイクリングである。
腹は減るのでタイ焼きなどを買い食いしながら東北本線沿いの狭い中仙道を走り、
浦和宿に到着した。
以前車で来た時は、この辺は渋滞に嵌ったが今回は自転車なので道が狭くて
危険だがスイスイ行けた。
そのまま大宮宿に到着したが、現在のさいたま市は発展が著しく、中仙道の史跡があり大宮宿の名の由来は大いなる宮である武蔵一ノ宮の氷川神社からの起源で、かつては参道が中山道でもあった。
初日は大宮宿までで、次回に続く。