みらい三度笠の道中ブログ

みらい三度笠が道中をします。

美濃路 旧道 垂井宿~大垣宿 自転車 吉例街道 shogun そして伝説へ1

     美濃路自転車旅 垂井宿~熱田宿まで 2022年5月の道中記  

 中山道東海道を繋ぐ美濃路は、中山道の宿場の垂井宿から

2021年4月YouTube中山道サイバー大八車道中での垂井宿一里塚

東海道の宮宿・熱田宿(愛知県名古屋市)を結ぶ脇往還である。

2021年1月YouTube東海道五十三次の徒歩道中での宮宿の七里の渡し

江戸時代の美濃路の全長は、14里24町15間約57,5kmある。

中山道の垂井宿、大垣宿(岐阜県大垣市)墨俣宿(岐阜県大垣市)起宿(一宮市

萩原宿(一宮市)稲葉宿(稲沢市)清須宿(清須市)名古屋宿(名古屋市)の

七宿があり宮宿・熱田宿で東海道と合流地点となる。

*此処から暫く美濃路の歴史や、みらい三度笠の今回の道中に至る感想になります。

慶長5年1600年天下分け目の関ケ原の合戦で、始めに福島正則が先方として清州城から進軍し、徳川家康関ケ原の合戦で勝利した後に、

     2019年5月中山道六十九次自転車道中での、関ケ原の桃配り山の写真

徳川家康関ケ原からの帰路を、凱旋した道である事から、美濃路はお喜び街道・

吉例街道とも呼ばれる。

それ以前にも美濃路では熱田神宮の源太夫社から「敦盛」を舞い出陣をした織田信長が、今川氏との桶狭間の合戦で劣勢の織田軍が今川軍に逆転勝利した。

太夫社・上知我麻神社の元の位置にある看板。現在は熱田神宮境内の南門付近に祀られる

箱根峠の小田原征伐1590年の兜岩 
2021年12月YouTube東海道五十三次徒歩道中より

美濃路を通った豊臣秀吉は、北条氏との戦いの小田原征伐で勝利した道でもあった。

その後、五街道と同じく、江戸幕府の道中奉行の管理下の元で道幅、松並木、一里塚、宿場、助郷五街道並みに整備されていた。

東海道鈴鹿峠越えや、海路となる宮宿から桑名宿への「七里の渡し」よりも、天候などに左右されず安全な通行が可能だった為に

女性や多くの旅人が利用した。徳川家康、秀忠、家光など将軍や参勤交代の大名や

朝鮮通信使琉球王使、お茶壷道中、将軍に献上された象も通った。

 そしてこのブログの前回までのあらすじは、2022年5月にみらい三度笠は北陸街道を新潟から、中山道との合流地点の鳥居本宿までを5泊6日でフルカーボンロード

バイクの自転車で走破した。

2022年5月北陸街道自転車旅のゴール地点の鳥居本宿

北陸街道を糸魚川宿よりスタートした時点で、カーボンハンドルの右側のブレーキブラケットバンド下が、折れかけていてカーボン繊維で何とか繋がっている状態に気が付いた。

修理不能の状況なのでそのまま山岳地帯のダートを走り、北陸街道のゴールの鳥居本宿に到着したのだが、交換修理の時間も無いので、そのまま折れたかかったハンドルの

ステム一体型フルカーボンハンドルで美濃路の自転車旅を続ける事にした。

美濃路の道中はハードな未舗装林道の走行は無い。

中山道の垂井宿から、東海道の宮宿を繋ぐ脇往還道の美濃路を自転車で道中を続ける

その理由は単に旅費の経費削減と、お江戸東京からの移動時間の効率化であるが、

今にして思えば偶然にも、今回のみらい三度笠の北国・北陸街道の自転車道中は

越の国の新潟県の駅に奴奈川姫の像のある、糸魚川産の翡翠をお守りで購入して

道中の安全のお守りで身に着けての、北陸街道の道中を振り返ってみる話が暫し続く。

糸魚川駅 奴名川姫像 2022年5月北陸街道自転車旅  

         俱利加羅峠  2022年5月北陸街道自転車旅

        倶利加羅峠での源義仲木曽義仲)・巴御前の看板

  俱利加羅峠の戦い1183年で木曽義仲は、火牛の計を平家軍に使い勝利した。

俱利加羅峠を越えて北陸街道自転車道中で、

福井県の古市付近の九頭竜川付近で宿泊したが、付近にある九頭竜川という名は、まるでヤマタノオロチのようだが違うそうで、揖斐川の方が荒ぶる河川の様子から

その説がある。

出雲国風土記日本書紀など諸説あるが、古事記によると高志之八俣遠呂智と言われ、ヤマタノオロチは高志(越の国)から来るとされており、出雲国高天原を追放された素戔嗚(スサノオ)がヤマタノオロチに生贄にされる櫛名田比売クシナダヒメ)を櫛に変え身に着けてヤマタノオロチに強い酒を飲ませ、寝た所を十挙剣で切りヤマタノオロチを倒したが尾の部分で十拳剣が刃こぼれをした。

その原因のヤマタノオロチの、体の尾から剣が出てきた。

古事記では都牟羽(つむは)の太刀と呼ばれ、草薙剣天叢雲剣とも言われる。

その剣を天照大神に献上して、高天原で狼藉を働き追放されていた素戔嗚は

櫛名田比売と夫婦となり出雲国を治めた。これが日本の貴種流離譚とも言われる。

           三種の神器        
                       画 いらすとや

それが三種の神品の一つである、草薙剣である。 

その後、日本武尊の東方征伐の神話の後に、宮宿、熱田宿の熱田神宮に奉納された。

源平の合戦で壇ノ浦の海に沈んだ草薙の剣は、形代と言われる。

そう、今回のみらい三度笠の2022年5月の北国街道、北陸街道から連続の

美濃路自転車道中は正に、日本神話の伝説の足跡を辿るが如き旅だった?

さらに本題から話が飛ぶが実は2022年5月の北国街道、北陸街道自転車道中と

美濃路自転車道中の直前に、みらい三度笠は交通機関を使い、2022年4月に

九州旅行に行ったのだ。

2022年4月 太宰府天満宮の鳥居

太宰府天満宮に初詣りした後に、俱利加羅峠から続く1185年の壇ノ浦の戦いで平家は敗れ、三種の神器安徳帝と供に御入水をした。その剣だけ見つからないままの

壇ノ浦に雨の中出かけた。

関門トンネルの人道の海底歩道を歩きで九州の門司側と、山口県下関側を往復した。

2022年4月 壇ノ浦 安徳帝御入水処 平知盛源義経の像雨

そして、平安時代から時は385年程も流れて戦国時代の武将達の中でも、織田信長平家物語が題材の曲舞の幸若舞「敦盛」の芸能を好んで舞った。美濃路の熱田の源太夫社で舞い、その後に桶狭間の戦い(1560年)に進軍し、大群の今川氏に逆転勝利した。それが有名な

「人間五十年下天の内にくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を享け滅せぬ者のあるべきか」である。


www.youtube.com

この平家物語源頼朝も、名古屋の熱田の出生である。

最近リメイクして人気の作品となったSHOGUNこと、征夷大将軍徳川家康

その幸若舞を保護し、徳川家康は本来の名は松平家康で藤原氏の家系を名乗っていたが、征夷大将軍の称号を賜る為に源氏の家系である由緒を、群馬県太田市世良田の

源氏新田義季氏の家系を名乗り、その徳川氏(得河))から子孫である松平なので

徳川と改名した。

2021年の日光例幣使勅使道の自転車旅の道中で立ち寄った世良田東照宮

世良田東照宮 

徳川家康は幼名の竹千代の名の頃、今川氏に人質として送られる途中で、

護送役に裏切られ織田氏の人質として、家康は熱田宿の万松寺で織田家に捕らわれ

の人質生活が続いたという。

そして後の関ケ原の合戦での勝利の後、美濃路・御吉例街道(おきちれいかいどう)で清洲城へ戻り家康は後に征夷大将軍となった。

これも貴種流離譚という事だろうか、しかし信長、秀吉同様に名古屋を都にせずに

家康は江戸を都とした。

熱田神宮に祀られる草薙剣にまつわる伝承において、日本武尊安徳帝源頼朝

源義経、戦国時代の織田信長豊臣秀吉の運命とは異なり徳川家康の辿った

軌跡だけが天下統一達成と、徳川幕府が長期政権だった理由は謎である。

美濃路自転車旅 2022年5月の始まりは此処から。

北陸・北国の道中では自転車を山中で雨に降られず泥だらけで押し上げる苦労も無く

ほぼ晴れの道中だったが古事記の伝説にもある熱田宿こと宮宿を、目指す美濃路の道中を始めると雨が降り始めた。伝説では天叢雲剣の近くは雨になると言われるとか。

道中で使い続けボロくなった、白い上着とズボンの2つのセパレート雨ガッパを着て、カッパ2(活発)にフルアーマーみらい三度笠は出発した。

美濃路とは飛鳥、奈良、平安時代には東海道尾張国国府を経由し、美濃国にまで国府で繋がる東山道(古の中山道の呼び名)の不破関までの道であった。

鳥居井本宿から米原(まいばら)駅までを、自転車で北国街道で戻った。

北国街道の米原宿は旅籠かめやの前の、中仙道の番場宿へ分岐点があり

その切通しの道で大阪への物流を行い繁栄をしていた。

 米原駅はかつて琵琶湖と入江内湖を掘削して接続した米原湊の船着き場だった。

米原駅から輪行中山道垂井駅に到着した。

  垂水宿  垂井駅前の地図看板  2022年5月美濃路自転車道

 この日は午前中に北陸街道の最終日の木之元宿~鳥居本宿の約29kmの道中を

終えて糸魚川宿~鳥居本宿まで江戸時代の北陸・北国街道自転車道中の5泊6日で

約290kmを無事に完走した。

続けて5泊6日目の実質道中連続6日の午後から美濃路中山道の垂井宿から

東海道の宮宿までの距離約57,5kmの自転車道中を開始した。

実際はもっと寄り道してます。

 垂井宿の入り口の東見付 此処で役人が大名行列を迎え入れた

この東見付に江戸時代は相川に橋は無く、人足で渡った相川渡し人足跡がある。

垂井宿から相川橋を渡る。5月5日までは大量の鯉のぼりが河川に渡される。

    垂井宿追分道標 美濃路中山道の分かれ道

江戸時代は美濃路に多くの松並木があった。

現在も大きい松並木が殺風景にアスファルト化した、美濃路で江戸時代の道中の

雰囲気を思い起こすので、今後も松並木を残して欲しい。

かつての綾戸の一里塚は現在は消滅し発見出来ない。

垂井宿から薬5km程で西大垣に到着をした。此処が既に大垣宿の西見付を過ぎた

のか?

北国街道での朝食から、12時もとっくに過ぎた頃なので腹のホトトギス虫が鳴くので、サイコロチャーシューのラーメンを食べた。

北国街道から美濃路道中でも、ラーメンのコロチャー文化圏が続く。

美濃路の道中は最後まで、雨は降ったりやんだりを繰り返す事となる。

 久徳の一里塚 今回の道中で最初の一里塚で片側のみ残る。

杭瀬川の静里町塩田常夜灯
明治13年に航行する船舶の安全と標識として、そして
伊勢両宮の献燈として建立された。 
平成30年の台風で破損した。

垂井宿から約10kmほどで大垣宿の中心と言える場所に着いた。

     大垣宿は現在の岐阜県大垣市竹島町付近

大垣宿の水門川の船町港に浮かぶ和船 

和船の船上カバーが近代的なデザインなので、カッコイイ。

水門川は大垣市から南流し揖斐川に合流する運河です。

水門川の船町港の住吉常夜灯 天保11年(1840年)に建立し高さ約8m

奥の細道の終点である結びの地は、あの有名な「奥の細道」の松尾芭蕉の像があった。

源義経が、熱田宿で生まれた兄の頼朝に逆賊として追われ、義経が頼った

奥州平泉の藤原秀衝に裏切られ、義経と欧州藤原との戦となり義経が自害した。

芭蕉はその平泉の義経の足跡の、古きを訪ね新しきを知りたくて、奥の細道の道中を

したとも言われる。

2021年12月の東海道五十三次徒歩道中YouTubeでの藤沢宿

 

その奥州藤原秀衝すら義経を匿った罪で、源頼朝に滅ぼされたが、

平安末期の旧相模川橋脚 2021年1月東海道五十三次徒歩道中YouTubeの平塚宿

その源頼朝相模川下流を馬入川とも言い相模川橋の落成供養後に落馬をしてその後、亡くなったとされる。

このあり様を、芭蕉奥の細道で「国破れて山川あり、城春にして青草みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪落とし待りぬ。夏草や兵どもが夢のが跡 は有名な盛者必衰の理

と、平安末期の1180~1185年の平治の乱の時代の歴史を語り、芭蕉

門人河合曽良

元禄二年(1689年3月27日)に江戸の深川から出発し東北・北陸を経てここ大垣で「奥の細道」の旅を終えた。

実はみらい三度笠は2020年4月にサイバー大八車で

東北地方の車中泊で江戸東京から高速で仙台に行き気仙沼日本三景の松島や

松島 2020年4月東北地方のサイバー大八車の道中の写真

岩手県平泉付近、青森津軽海峡から日本海側の秋田山形、新潟、東京までの4泊の道中を続けて2回も旅した。松尾芭蕉の正確な奥の細道の東北の道中ルートではないが何となく雰囲気は分かった。北陸ルートは正確な自転車だったので、なんとなく「奥の細道」も終えた?みらい三度笠にも芭蕉の言葉の「不易流行」ふえきりゅうこう)が身に染みた?

「不易を知らざれば基立ちがたく、流行知らざれば風新たなららず」は

「変わる事が無く変わらない基を理解してから、新しい流れを理解しないと

進歩はない」と、みらい三度笠は解釈した。

松尾芭蕉同様に、みらい三度笠も美濃路の自転車旅も大垣宿で終わりにしたくなる

豪雨が激しく降り出したので、公園の建物の軒先で雨宿りをして雨脚が弱まって

から、みらい三度笠の「温故知新」の、古を訪ね新しきを知る美濃路道中を再開した。

町道標 左江戸道 右京みち

大垣宿の美濃路ルートが赤い線で描いてある案内看板

大垣城西総門跡(美濃路京口御門跡)を通り過ぎると、大垣宿本陣跡に到着した。

 大垣宿本陣跡 

大垣宿問屋場跡 大名行列の伝馬、人足の継立を差配や飛脚の伝令の施設

 

        大垣の和菓子その1

大垣の和菓子その2水まんじゅう

 

 大垣城

城壁に沢山銃口がある城は珍しい大垣城

高札場があった場所の説明の立て札

大垣本陣門などが現存した頃の写真

大垣宿から佐渡川を橋で渡り墨俣宿に入る。江戸時代は渡し舟だったので常夜灯がある。

佐渡常夜灯

これから羽柴秀吉で有名な一夜城の、墨俣宿になる。

続く。

令和6年2024年の来年の甲辰年の主題歌ならば、摩訶不思議アドベンチャー!

 来年令和6年2024年甲辰年に相応しい、タイトル連呼系の主題歌ならば

摩訶不思議アドベンチャーだ。

www.youtube.com

名古屋近辺は、熱田神宮徳川家康岡崎城の龍城神社がある。

漫画家の鳥山明ドラゴンボールや、ゲームのドラクエキャラクターデザインの

発祥の地は清須城のある、清須市でもある。

*このブログを書いた後、2024年1月に清須市20周年記念のロゴのキャラを

鳥山明が描いたが、清須城の初期の城主の織田信長がデザインだと思う。

千と千尋の神隠しの油屋は、清須城がモデルという説もある。

千尋におにぎりをくれた、ハクという登場人物は白龍である。

みらい三度笠も冬の徒歩での、東海道五十三次道中で愛知県岡崎の岡崎宿のレトロな

龍城温泉で体の芯まで温まり、道中の疲れを癒した思い出がある。

君たちはどう生きるか を観た感想 ネタバレあり

 作品の事前の宣伝は全く無しで、鳥の被りモノの人物の絵だけ発表された

映画だったのでおそらくエンターテイメント性は、あまり無いだろうと予想された。

ハウルの動く城までは宮崎作品は東映まんが祭り的な、家族で楽しめる娯楽作品

だった。

風立ちぬあたりから、引退詐欺で作風が地味な宮崎の私小説的なモノになり、

今回の君たちはどう生きるかの作風も、ミヤザキの人生の投影まんが走馬灯的私小説祭という地味な作品だったという印象で、ラストのオチも特に感動も無い。

私が一番好きな千と千尋の神隠しが10点だとすると、7,5点位だった。

自転車人力車の客席椅子のバネの沈み込みの表現がリアルなのが、メカに拘りのある

宮崎作品らしく、ギチギチするバネの音が女性の重量感を良く表現していると思った。

偶然だろうがワンパンマンのフェニックス男の後に、少年の心を惑わす鳥人間の展開は似ていたが製作期間を考えると偶然だろうが、ネタの後出し感があった。

両方の作品の優劣を決める、鳥人間コンテストなのか?

アオサギとは、辞める辞めるサギの宮崎監督自身の、投影まんが祭りなのだろうか。

ラストのオウム大王あたりは、漫画版ナウシカのラストのヒュドラっぽい残酷さが

あり、ナウシカ続編アニメの噂は此処から来ているのかと思った。

本編上映前の別の映画作品の宣伝でジブリっぽい絵の、別会社のアニメの宣伝が流れていたが宮崎監督後を継いで、積み木を重ねられるアニメの監督は現在日本には、殆ど居ないと思い知るだけだった。

北国街道 自転車旅 完結編 中山道の追分宿から北国街道で高田宿までを行く2 善光寺宿~高田宿


www.youtube.com

2020年8月の約3年前の、遠い日に置き去りにした

北国街道の自転車道中の物語。

三度笠を着けた、ロンリー旧道ボーイのみらい三度笠の翡翠色の勾玉の男の夢は、

道中2日目の今日に、新潟の高田宿に着き完走する事だ。

北国街道の相原宿の中農の子として生誕した、小林一茶の俳句にある

 雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

は、北国街道の大名行列や、馬で運んだ金の運搬の風景を詠ったったものだろう。

北国街道は佐渡ヶ島の金山から採掘した金を、江戸まで運ぶ道でもある。

佐渡島の金山で食べれる、金箔アイスは金箔料理界で最安値ではないか!?

上下の画像は別の道中の、佐渡島一周サイクリングの時の写真です。

今日は北国街道の道中2日目の朝となる。

 

昨日の道中の最後に疲れた状態での丹霞郷までのヒルクライムは、8月の暑さで

かなり疲労したが、今朝は朝食に何時ものように納豆を食べて、腸内から健康管理を

している。

今日は元気な状態で信州中野IC付近の宿から、昨日の丹霞郷への急斜面を登りに再び向かう。

昨日見た大きい牛の像を見学して、丹霞郷のリンゴ畑の坂道を登る。

宿泊地の下界から、グイグイ登り綺麗な空気の丹霞郷までの急坂を呼吸は荒いが

昨日よりあっさり登れた。朝の雲の北信五岳も輝いて見えた。

此処から、昨日の北国街道の自転車道中を再開する。昨日の続きの登りは直ぐに

峠の頂上になり牟礼宿までは、ダウンヒルでかなりスピードが出やすい。

勢いを抑えるブレーキングでダウンヒルをした。

平出追分という場所を、何時の間にか通過していたらしいが、

動画からの写真 牟礼宿の付近は急勾配の下り坂。

牟礼宿御本陣跡  現在は本陣の建物は無く駐車場だった。

追分宿から北国街道の距離は約85km

本陣跡から十王堂のある短い距離だが急勾配の十王坂を登ると、高さ2m位の背の高い

ヒマワリが咲いていた。

金附場跡 江戸時代に佐渡ヶ島で採掘された金銀を江戸まで輸送する為に

馬から馬へのリレーで、載せ替えをする中継施設。

史跡のマンガでの説明は、面白い。

その金を採掘する,新潟の佐渡島の金山の佐渡奉行所。 

江戸時代に金の精製は、この奉行所で行われて北国街道を通り江戸に送られる。

これは別の道中の2020年11月の、佐渡島一周の自転車道中の写真。

佐渡島での2020年11月の写真は此処まで、話は8月の北国街道に戻る。

牟礼宿から小間宿への明治時代の舗装路と、江戸時代の未舗装路の分岐。

動画の写真。江戸時代の北国街道を、700x25cのスリックタイヤの

カーボンロードで未舗装路の道中を続けるが、夏なので虫にタカられ鬱陶しかった

が、クマなどには幸い遭遇しなかった。

古間一里塚跡 古間宿に着く。約92km

俳人で有名な小林一茶の故郷はこの地で、一茶記念館があった。

50代で3回の結婚と6人の子供を作った、小林一茶の元気さを現代人は、一茶の俳句同様に学ばなくては、日本は少子化し過ぎて無残様に滅しそうでヤバい。

すぐに相原宿になる。約93km

美味しそうな焼きトウモロコシが、売っていたので購入した。

芯を持っての食いちぎるワイルドな食べ方の焼きトウモロコシは、

原始肉的な感じもする。

甘くてとても旨かった。

みらい三度笠は長年誤解していたが、太古に野尻湖に居たナウマンゾウと、

マンモスは別物という、生物学上の区別がなかった。

つまり、はじめ人間ギャートルズはマンモスの原始肉を食べてるのであり、

ナウマンゾウの肉は、食べてはいないとは知らなかった。

日本の本州にはマンモスはおらず、ナウマンゾウだけが生息していた。

北海道はマンモスとナウマンゾウが、混在して生息していたという事だ。

ギャートルズは北海道での話だろうか?

黒曜石の文化を日本各地に広めた縄文人ゲノム解析同様に、ナウマンゾウ

マンモスもゲノム解析で、古代の謎が解き明かされる日も来るだろう。

昔にゾウが踏んでも壊れない筆箱のcmがあったが、ナウマンゾウなら耐えられるが、マンモスではその筆箱は壊れてもマンモスは、ゾウではないので保証はしないかも。

古い話が多過ぎた。

野尻宿に到着した。約96km

野尻湖の湖畔で野尻湖の水に触れ、太古の1万3千年前この地に居たナウマンゾウ

存在に思いを巡らせた。

先を急ぐ旅なので野尻湖ナウマンゾウ博物館には、残念だが立ち寄れず再び北国街道の関川宿の関川御関所に進む。約100km

赤川1号スノーシェード 豪雪で道路が埋没しない為のトンネルが必要な程の

雪が降ると言う事だろう。

江戸時代の北国街道では、豪雪で除雪が出来ず通行止めになる事もあったという。

数か所スノーシェードを抜けるダウンヒルを終えると、関川御関所に着いた。

関川の流れる橋を越えると、これにて信越国境超えとなる。

すぐに次の宿場の上原宿になる。場所が良く分からず写真も無いまま通過してしまった。約100km

此処は田切宿 約103km
その次は二俣宿だが写真は無し。約105km

北国街道は次の宿場の間隔の距離が、中山道などよりも近い。

この妙高大橋の下に、旧北国街道があるのだが2020年8月の当時は

橋の架け替え工事の為に通行止めだった。

写真左のクレーンの下の先に名水100選の湧き水があり、大田切清水と呼ばれ

参勤交代など旅人の喉を潤した場所があるが、妙高大橋架け替えの為に工事中の新しい妙高大橋の下の場所には行けない。

北国街道から外れ旧妙高大橋で、大田切川を渡った。

2023年の現在は工事は完了しており、旧北国街道は通過が出来そうだ。

新潟の郷土料理の笹寿司でお昼ご飯にした。妙高市上越市糸魚川市で食べられる。

江戸時代の北国街道の道中の食事らしい、現地の郷土料理は美味しかった。

笹の葉には殺菌効果があり、今はサランラップだが昔は、おにぎりなどの飯を

笹の葉で巻いて携帯をした。

ストーブ並みに熱い8月だったので、おやつにアイスを食べた。

もう少し先で次の宿場の関山宿になる。

関山宿に到着した。 約110km

 

二本木宿    約115km 二本木駅スイッチバックで進行する。

小出雲坂 かつては松並木の道で「越後見納めほろと泣いたをなんじ忘れられよ」と

里歌に歌われた。昔は高田平野や日本海が見えたそうだが、松並木も無ければ

高田平野も日本海も気が付かなかった。

新井宿に到着。約121km

新井宿本陣跡 道の向かいに高札場跡がある。

今回の道中の目的地の、北国街道の高田宿に到着した。 

追分宿からの距離は約131kmの、かなり江戸時代の道筋の自転車道中だった。

高田宿は3m以上の豪雪の為に、雁木という木のアケードの通路が街に張り巡らされている。そして2020年8月のこの道中では、街の軒先の全てに飾られる大量の風鈴が

響き渡り、鈴の音であるが故に不快ではなく街の空気を涼やかな物にしていた。

江戸っ子のみらい三度笠は、風鈴の音色は江戸風情を思い浮かべる。



東海道中膝栗毛」やじさんきたさんの、作者の十返舎一九の作品

「諸国道中金の草蛙」に登場する歴史ある、飴屋で土産を購入した。

伝統的な和菓子かと思いきや、グミみたいな現代的なイマドキな味と食感なので

ナウなヤングのみらい三度笠にも、まろやかで美味しい。

お馬出しの辻

高田城 家康の六男 松平忠輝の居城として慶長19年(1614年)に建てられた。


デザインが独特なJR高田駅

雁木通リにある、旧今井染物屋 市が文化保存の為に所有する資料館。

この時点の道中は見学が出来ない事が多い。 

瞽女ミュージアム高田 盲目の女旅芸人の人生が分かるミュージアム

こちらの付近の上越本町七丁目が、北国街道と北陸街道の分かれ道である

北国街道追分となる。

北国街道の中山道追分宿から高田宿まで、約131kmの道中を終えた次は

北陸街道の自転車道中の始まりとなる。

北陸街道のここから中山道の合流地点の、鳥居井本宿まで約397kmの距離だ。

 

今回の道中は明日に糸魚川まで、北陸街道の日本海側を走って終了するので

今日は北陸街道の中屋敷宿の、直江津駅付近まで自転車道中をした。

北陸街道の宿場の中屋敷宿を通過する。高田宿から約4、13kmの距離。

高田と直江津が合わさって、現在は上越市と呼ばれる場所の加賀町にある加賀街道の

史跡説明の看板。かつては参勤交代など物流などで賑わっていた。

みらい三度笠の自転車道中では、はじめて御江戸東京から新潟上越市日本海まで

走破して眺めた居多ヶ浜ノ海は、自分の力で訪れたので感慨深い。

2020年8月の北国街道の自転車道中記は之にて、一件落着なり。

この道中の中山道合流地点までの続きは、先に書いてしまった2022年5月の

北陸街道自転車旅で完結します。














北国街道 自転車旅 中山道の追分宿から北国街道で高田宿までを行く  追分宿~善光寺宿 その1

 

 写真は2020年8月の北国街道の追分宿

 三歩を歩いて旅の記憶が薄れる、みらい三度笠は

2022年8月の北陸街道・北国街道の糸魚川宿~鳥居本宿の中山道の合流地点編を

忘れない内に先に書いてしまったので、時系列が前後してしまう。

本当は動画にするつもりだったが、最近は収益激減中と言われるYouTubeだが

収益化は見込めない状態の、再生回数のみらい三度笠の道Tube

(どうちゅうぶ)のYouTube動画の編集は、時間が掛かり採算も合わない。

煩雑で座りっぱなしの、缶詰め状態の動画編集は大変不健康だ。

そんなワケで2020年の8月の自転車による道中の北国街道の追分宿~高田宿編は

しっかりと動画撮影はしていたが、道中の時の気持ちや記憶も薄れ、大変な動画の

編集作業をする気力も薄れてしまい、制作の楽なブログ化をする事にした。

その為、動画撮影はしたが、ブログ用にあまり写真が無い状態だ。

サムネイル作りもメンドクサイ。

動画は映像によるインパクトが強いが、細かい文章を伝えるにはブログの方が良い。

前置きが長くなったが、此処から本題の道中の始まりです。

 2020年8月に開始した北国街道の道中を、中山道と北国街道の分岐点の

追分宿から高田宿まで約131kmを、自転車で道中に旅立った。

今回は分去れ道標の動画撮影はしたのだが、写真の撮影をしてない。

代わりに、動画の映像のモニーター画像の写真です。

この分別れで右の道が北国街道で左の道が中山道となる。

ここからは2020年8月の写真となります。これから再びみらい三度笠が中山道

鳥居本宿で合流したのは、約1年9か月後にこのブログに書いた北陸街道・北国街道の越後、越中、加賀、越前への道中の2022年5月の事であった。

シャーロック・ホームズ像がある。この場所はホームズの翻訳家の延原兼氏の仕事場に近かった。

ホームズで始まる、北国街道、北陸街道だけではないの通り名の謎解き道中が始まる。

影響を受けた作品は多く、江戸川乱歩、宮崎監督も携わった名探偵ホームズ、

江戸川コナンなど、日本の探偵物の作品に影響を及ぼした人気作品の始まりと言える。

などと書くと江戸時代の道の道中記ブログとしての、江戸時代の歴史考察の要素が薄い。

ここは、北国街道の分岐点の江戸時代の中山道に所縁のある、なんだ神田の明神下の

台所町に住む設定の銭形平次のように、道は時にはまがりもするが、かけてもつれた謎の北国街道・北陸街道や加賀藩参勤交代道、善光寺街道などや

(この写真は2020年11月の、佐渡ヶ島一周的自転車道中の写真です)

佐渡島の金山の金を江戸に運搬も行い、絹を横浜まで運び海外に輸出する道の謎を、

みらい三度笠に解けるのだろうか?実はこの時は調べたルートを正確に走ってるだけで

満足なので、後日に興味を持ち知識を吸収している状態だ。

今日は道中の開始から、ほぼ下りが続くペダルを漕がない自転車道中で気が楽だった。

だが、この日の最後はキツいヒルクライムが待っているのだ。そして夕方には周囲に

泊まれる場所も無い場所に到達する。さらに走り続け暗闇の中で旧道の走行は

可能だが、その区間の旧道の景色は夜で真っ暗で道中の発見を楽しめない。

江戸時代の宿場めぐり旅あるあるの、江戸時代の宿場町に行ったら、今は宿も無く

泊まれない!である。

仕方が無く宿泊地の為に峠越えで登った標高を、途中で放棄して旧道から外れる。

下界の宿に向かい下り、翌日また翌朝に再び戻り登る訳の分からない状態の、

道中となる日程だ。

追分宿から小諸宿へ向かうが、小諸城は立ち寄れず通過してしまった。

小諸と言うと江戸っ子には、都心の旨い立ち食い小諸そばを思い出す。

小諸宿 脇本陣 脇本陣の茶屋「粂屋」(くめや)はリフォームしてあり

泊まれる脇本陣で、食事も出来る。

この2020年8月は此処で写真をしていたら、親切な方が撮影をしてくれた。

 

小諸宿 本陣 国の重要文化財

追分宿から小諸宿まで約13,24km

田中宿に到着した。

途中に見学の出来る江戸時代の有名な力士の、雷電の生家があるそうだ。

田中宿は道路がバリアフリー化されて電柱は無く拡幅されて、かつての宿場の面影は

薄い。

脇本陣跡の高木屋があり、本陣は本陣門のみ残されている。

この道中の2020年の夏の頃は、ウイルスによる自粛で飲食店が休業で、

テイクアウトのおやきと饅頭で、昼飯代わりにしたが少々物足りない。

小諸宿から田中宿まで約9,24km

北国街道の宿場は浅間山の噴火や、河川の氾濫による甚大な被害を被っていた。

この時の道中で訪れた海野宿はこの時点で2020年8月だったが、前年2019年の千曲川の氾濫による甚大な決壊被害の、堤防の修繕工事の真っ最中であった。

現在は工事は完了した模様です。

次の海野宿に到着した。

海野宿は江戸時代は宿場として栄えたが、明治以降は宿場の宿の広さを利用して

養蚕の蚕種業に業態を変えて、当時は欧州など海外に蚕種紙など輸出して発展した。

ああ、野麦峠の小説、映画作品が創作されて、世界遺産の富岡製紙工場で作られた

製品が北国街道やその他の道で、集約地の江戸の八王子に運ばれ浜街道(八王子~横浜の港)で、日本の絹の道(シルクロード)から欧米などに幕末から海外に輸出された。

喜太郎の名曲のシルクロードに相応しい、その長い絹の道中の「シン・シルクロード」は、日本にもあった。


www.youtube.com

北国街道は立派な宿場で江戸時代の造りの建物が保存されており、写真の右にある

二重の「越屋根」は養蚕の為の換気口です。その他宿場には繁栄の証の本卯建・袖卯達(うだつ)もあり、瀬戸内の海の岡山の倉敷を思い出す。

海野宿資料館が開いていたので、養蚕の産業と歴史や道具を見学をした。
揚羽蝶の家紋が有ったのだが、蝶は養蚕産業の象徴にも見えるが、

平家の清盛流と言う事なのだろうか。

養蚕産業は第二次世界大戦までは盛んだったが、化学繊維の台頭で隆盛を終えた。

世界的企業のトヨタも、養蚕産業の機織り機メーカーから、先を読み自動車産業

転身をして成功をしたが、世界情勢や化学技術や生産技術の向上で、基幹産業の移り変わりに上手く対応出来ないと繁栄は続かないが、歴史と伝統は見失いがちだろう。

田中宿から海野宿まで約1,18kmと近いのは当初、海野宿は間の宿だった為だ。

上田宿 北国街道沿いにある、第3セクターしなの鉄道大屋駅

信州大学繊維学部の敷地前を通過して、またおやきを買った。

信州で食べるおやきは旨いのだ。

上田宿は真田氏の街で、真田十勇士像が商店街に点在していた。由利鎌之介像

上田城は先を急いで立ち寄れず残念だった。

上田宿で暑いので、長門牧場のソフトクリームを食べた。

アハッ!実にミルキーだよ!美味かった。

海野宿から上田宿まで約7.86km

上田宿にある上塩尻から下塩尻の次の宿場である 間の宿 鼠宿 鼠宿跡の看板

松代藩の私宿で口留番所があり、人物や物資の取り締まりを行っていた。

松代藩と上田藩の藩境で、御茶屋など休憩所があり、旅人の憩いの場となっていた。

浦安のネズミーランドよりも、先に日本にあった鼠宿。

此処から上田藩の坂木宿に到着する。

北国街道でよく見る、越屋根、卯達(うだつ)の建物の造り。

北国街道沿いの刈屋原ミニパークから見た千曲川の河川。

これから、その千曲市の上戸倉宿、下戸倉宿に着く。

まだ下りが多く、自転車では実に楽な道中である。

上田宿から坂木宿まで約11.45km

坂木宿から上戸倉宿は約3,08km

上戸倉宿から下戸倉宿は約1,71km

動画は有るが写真が無いが、古い江戸時代の街道の風情があった。

下戸倉宿から矢代宿は約4,13km

写真無しの矢代宿から北国街道で千曲川の河川敷の堤防を通リ、しなの鉄道の青く長い鉄橋の掛かる踏切を越えると、丹波島宿に到着した。

鐘馗さん像(しょうき)は昔から邪気払い、防疫の為に鎮座している。

丹波島宿の家の屋根に飾られる。

犀川に架かる丹波島橋のモニュメントには、明治23年(1890年)8月に民間で

初代の木の橋の丹波島橋を、架けたと記載されている。

矢代宿から丹波島宿まで約14,58km

善光寺宿 和風の長野駅前に到着したが、私は電車では来た事は無い。

北国街道は善光寺街道と、言われる有名な参道であった。

栄えた善光寺の街並みの参道を通リ、日が暮れるまでに道中を続けた。

善光寺を過ぎると遂に登りが続く事になる。疲れた頃にハードな事はしたくないが

あきらめるしかない。

丹波宿から善光寺宿は約5,08km

善光寺宿の標高422mから登りが続き新町に入る。

新町宿で吉田を先に飯山街道分岐点の石碑がある。

善光寺宿から次の宿場町の新町宿は約4.38km

そして田子池を通過して約5km程の登って、本日の北国街道の自転車道中は

標高約580mのリンゴ畑の丹霞郷近くで終了した。

初日の1日目は上り坂の途中だが、北国街道と国道60号線(若槻大道り)の交差点で道中はおしまい。

8月と言えどもはや夕闇が迫り、この先も今回の北国街道の最大の標高のヒルクライムが続き宿もしばらく無く、暗闇の道中は景色も見えず面白くも無く危険なので事前に予約した宿に泊まる。しかし、21世紀に江戸時代の宿場巡りを趣味とすると宿場なのだが、困った事に現在は泊まれる宿が付近に全く無い事も多のが悩みだ。

初日の今日はスタート地点の追分宿の標高が高く、ダウンヒルで始まりその後、

標高約150mの間で登り降りを繰り返す、微妙にシンドイ自転車道中だった。

この場所の丹霞郷から眺める事が出来る、長野から新潟までに連なる

北信五岳の5つの内の、飯綱山の眩い夕日を浴びる。

最期は北国街道の折角の本日の獲得標高を、盛大に投げ捨てるかのような、

もったいない急こう配のダウンヒルで、信州中野IC付近までブレーキ掛け捲りで下り、適当に予約した為に約11kmも離れた宿に泊まった。

高い値段でも、宿がない場所もあると言う事だ。

宿の付近に巨大な牛の像があった。

晩飯は美味しい店を宿で聞けた。
次の北国街道の宿場は牟礼宿になる。

明日は野尻湖で、原始肉が食べられるかもしれない!?

こおろぎはウマイ!

 こおろぎはウマイ!ドカベンとか最高で、高級のり弁みたいな高級ドカベン

食べたい。主役でなくても脇役で添えても、73年物のこおろぎは歌がウマかった!

いい曲が多かった。

特撮アニメの歌をメイン、コーラスで歌っていた、こおろぎ73のグループ名は、

元は便所こおろぎだったが、グロイのでこおろぎ73に変更されたそうだ。

私は昆虫食は安心安全な日本伝統の、イナゴの佃煮すら無理だ。

 

 

2月3日は節分の日だが、ツノ娘が増え過ぎなので豆まきをした。

 今年は、はてなのお題にもならないが2月3日は節分の日である。

近年は鬼滅シリーズの新作アニメや、スパイファミリーのアーニャというツノ有

キャラに、チェーンソーマンのパワーというツノ有がキャラが登場して、本家の?

リメイク版うる星やつらの外星人の、鬼ごっこ娘のラムだっちゃまで放映されている。

これらの作品が溢れて溢れて止まらない状態も珍しい。

私はしっかりと、今年もキメツオーバードライブの呼吸法で福は内!鬼は外!と

煎り豆を部屋から玄関へ撒いたとさ。

あ、鬼女は外だが女性はカモーンです。