美濃路自転車旅 垂井宿~熱田宿まで 2022年5月の道中記
中山道と東海道を繋ぐ美濃路は、中山道の宿場の垂井宿から
東海道の宮宿・熱田宿(愛知県名古屋市)を結ぶ脇往還である。
江戸時代の美濃路の全長は、14里24町15間約57,5kmある。
中山道の垂井宿、大垣宿(岐阜県大垣市)墨俣宿(岐阜県大垣市)
起宿(愛知県一宮市)萩原宿(一宮市)稲葉宿(愛知県稲沢市)清洲宿(愛知県清須市)名古屋宿(愛知県名古屋市)の七宿があり宮宿・熱田宿で東海道と中山道の
合流地点となる。
*此処から暫く美濃路の歴史や、みらい三度笠の今回の道中に至る感想になります。
慶長5年1600年天下分け目の関ケ原の合戦で、始めに福島正則が先方として清州城から進軍し、徳川家康が関ケ原の合戦で勝利した後に、
2019年5月中山道六十九次自転車道中での、関ケ原の桃配り山の写真
徳川家康が関ケ原からの帰路を、凱旋した道である事から、美濃路はお喜び街道・
吉例街道とも呼ばれる。
それ以前にも美濃路では熱田神宮の源太夫社から「敦盛」を舞い出陣をした織田信長が、今川氏との桶狭間の合戦で劣勢の織田軍が今川軍に逆転勝利した。
美濃路を通った豊臣秀吉は、北条氏との戦いの小田原征伐で勝利した道でもあった。
その後、五街道と同じく、江戸幕府の道中奉行の管理下の元で道幅、松並木、一里塚、宿場、助郷も五街道並みに整備されていた。
東海道の鈴鹿峠越えや、海路となる宮宿から桑名宿への「七里の渡し」よりも、天候などに左右されず安全な通行が可能だった為に
女性や多くの旅人が利用した。徳川家康、秀忠、家光など将軍や参勤交代の大名や
朝鮮通信使、琉球王使、お茶壷道中、将軍に献上された象も通った。
そしてこのブログの前回までのあらすじは、2022年5月にみらい三度笠は北陸街道を新潟から、中山道との合流地点の鳥居本宿までを5泊6日でフルカーボンロード
バイクの自転車で走破した。
北陸街道を糸魚川宿よりスタートした時点で、カーボンハンドルの右側のブレーキブラケットバンド下が、折れかけていてカーボン繊維で何とか繋がっている状態に気が付いた。
修理不能の状況なのでそのまま山岳地帯のダートを走り、北陸街道のゴールの鳥居本宿に到着したのだが、交換修理の時間も無いので、そのまま折れたかかったハンドルの
ステム一体型フルカーボンハンドルで美濃路の自転車旅を続ける事にした。
美濃路の道中はハードな未舗装林道の走行は無い。
中山道の垂井宿から、東海道の宮宿を繋ぐ脇往還道の美濃路を自転車で道中を続ける
その理由は単に旅費の経費削減と、お江戸東京からの移動時間の効率化であるが、
今にして思えば偶然にも、今回のみらい三度笠の北国・北陸街道の自転車道中は
越の国の新潟県の駅に奴奈川姫の像のある、糸魚川産の翡翠をお守りで購入して
道中の安全のお守りで身に着けての、北陸街道の道中を振り返ってみる話が暫し続く。
俱利加羅峠 2022年5月北陸街道自転車旅
源氏と平家の争いである治承・寿永の乱は1180年から1185年まで続いた。
此処は俱利加羅峠の戦場の地獄谷
1183年で木曽義仲は、10万とも言われる大軍の平家軍に火牛の計を使い
この谷に平家軍を追い落とし勝利した。
源義仲(木曽義仲)は、平家が支配していた都に上ると京で木曽義仲は
征夷大将軍の地位を賜り京の警備を任されたが、配下の者が京での略奪などの
狼藉を働き京の治安を逆に悪化させた。
それは平家との命懸けの戦いで、木曽義仲の家来らに褒賞を与えられない故の事で乱取りとも言われる。
後白河法皇を幽閉をするに至り、源頼朝ら鎌倉勢に木曽義仲は討伐をされ滅ぼされた。
その後の征夷大将軍は源頼朝となった。徳川家康の前にも征夷大将軍は存在していた。
俱利加羅峠を越えて北陸街道自転車道中で、
福井県の古市付近の九頭竜川付近で宿泊したが、付近にある九頭竜川という名は、まるでヤマタノオロチのようだが違うそうで、斐伊川の方が荒ぶる河川の様子から
その説がある。
出雲国風土記や日本書紀など諸説あるが、古事記によると高志之八俣遠呂智と言われ、ヤマタノオロチは高志(越の国)から来るとされており、出雲国で高天原を追放された素戔嗚(スサノオ)がヤマタノオロチに生贄にされる櫛名田比売(クシナダヒメ)を櫛に変え身に着けてヤマタノオロチに強い酒を飲ませ、寝た所を十挙剣で切りヤマタノオロチを倒したが尾の部分で十拳剣が刃こぼれをした。
その原因のヤマタノオロチの、体の尾から剣が出てきた。
古事記では都牟羽(つむは)の太刀と呼ばれ、草薙剣・天叢雲剣とも言われる。
その剣を天照大神に献上して、高天原で狼藉を働き追放されていた素戔嗚は
櫛名田比売と夫婦となり出雲国を治めた。これが日本の貴種流離譚とも言われる。
それが三種の神器の一つである、草薙剣である。
その後、日本武尊の東方征伐の神話の後に、宮宿、熱田宿の熱田神宮に奉納された。
源平の合戦で壇ノ浦の海に沈んだ草薙の剣は、形代と言われる。
そう、今回のみらい三度笠の2022年5月の北国街道、北陸街道から連続の
美濃路の自転車道中は正に、日本神話の伝説の足跡を辿るが如き旅だった?
さらに本題から話が飛ぶが実は2022年5月の北国街道、北陸街道自転車道中と
美濃路自転車道中の直前に、みらい三度笠は交通機関を使い、2022年4月に
九州旅行に行ったのだ。
太宰府天満宮に初詣りした後に、俱利加羅峠から京で平家都落ちの戦の1185年の
壇ノ浦の戦いで平家は敗れ、三種の神器は安徳帝と供に御入水をした。その剣だけ見つからないままの
壇ノ浦に雨の中出かけた。
関門トンネルの人道の海底歩道を歩きで九州の門司側と、山口県の下関側を往復した。
そして、平安時代から時は385年程も流れて戦国時代の武将達の中でも、織田信長は平家物語が題材の曲舞の幸若舞「敦盛」の芸能を好んで舞った。美濃路の熱田の源太夫社で舞い、その後に桶狭間の戦い(1560年)に進軍し、大群の今川氏に逆転勝利した。それが有名な
「人間五十年下天の内にくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を享け滅せぬ者のあるべきか」である。
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この平家物語の源頼朝も、名古屋の熱田の出生である。
最近リメイクして人気の作品となったSHOGUNこと、征夷大将軍の徳川家康は
その幸若舞を保護し、徳川家康は本来の名は松平家康で藤原氏の家系を名乗っていたが、征夷大将軍の称号を賜る為に源氏の家系である由緒を、群馬県太田市世良田の
源氏新田義季氏の家系を名乗り、その徳川氏(徳河))から子孫である松平氏なので
徳川氏と改名した。
徳川家康は幼名の竹千代の名の頃、今川氏に人質として送られる途中で、
護送役に裏切られ織田氏の人質として、家康は熱田宿の万松寺で織田家に捕らわれ
の人質生活が続いたという。
そして後の関ケ原の合戦での勝利の後、美濃路・御吉例街道(おきちれいかいどう)で清洲城へ戻り家康は後に征夷大将軍となった。
これも貴種流離譚という事だろうか、しかし信長、秀吉同様に名古屋を都にせずに
家康は江戸を都とした。
熱田神宮に祀られる草薙剣にまつわる伝承において、日本武尊、安徳帝、源頼朝、
源義経、戦国時代の織田信長、豊臣秀吉の運命とは異なり徳川家康の辿った
軌跡だけが天下統一達成と、徳川幕府が長期政権だった理由は謎である。
美濃路自転車旅 2022年5月の始まりは此処から。
美濃路自転車旅の前の北陸街道・北国街道の糸魚川宿から鳥居本宿までの5日間の道中では自転車を山中で雨に降られず、泥だらけで押し上げる苦労も無かった。
ほぼ晴れの道中だったが、古事記の伝説にもある熱田宿こと宮宿を、目指す美濃路の道中を始めると雨が降り始めた。伝説では天叢雲剣の近くは雨になると言われるとか。
道中で使い続けボロくなった、白い上着とズボンの2つのセパレート雨ガッパを着て、カッパ2(活発)にフルアーマーみらい三度笠は出発した。
美濃路とは飛鳥、奈良、平安時代には東海道の尾張国の国府を経由し、美濃国にまで国府で繋がる東山道(古の中山道の呼び名)の不破関までの道であった。
鳥居井本宿から米原(まいばら)駅までを、自転車で北国街道で戻った。
北国街道の米原宿は旅籠かめやの前の、中仙道の番場宿へ分岐点があり
その切通しの道で大阪への物流を行い繁栄をしていた。
米原駅から輪行で中山道の垂井駅に到着した。
この日は午前中に北陸街道の最終日の木之元宿~鳥居本宿の約29kmの道中を
終えて糸魚川宿~鳥居本宿まで江戸時代の北陸・北国街道自転車道中の5泊6日で
約290kmを無事に完走した。
続けて5泊6日目の実質道中連続6日の午後から美濃路を中山道の垂井宿から
東海道の宮宿までの距離約57,5kmの自転車道中を開始した。
実際はもっと寄り道してます。
垂井宿(岐阜県大垣市)
この東見付に江戸時代は相川に橋は無く、人足で渡った相川渡し人足跡がある。
現在も大きい松並木が殺風景にアスファルト化した、美濃路で江戸時代の道中の
雰囲気を思い起こすので、今後も松並木を残して欲しい。
かつての綾戸の一里塚は現在は消滅し発見出来ない。
垂井宿から薬5km程で西大垣に到着をした。此処が既に大垣宿の西見付を過ぎた
のか?
北国街道での朝食から、12時もとっくに過ぎた頃なので腹のホトトギス虫が鳴くので、サイコロチャーシューのラーメンを食べた。
北国街道から美濃路道中でも、ラーメンのコロチャー文化圏が続く。
美濃路の道中は最後まで、雨は降ったりやんだりを繰り返す事となる。
垂井宿から約9kmほどで大垣宿の中心と言える場所に着いた。
大垣宿は現在の岐阜県大垣市竹島町付近
和船の船上カバーが近代的なデザインなので、カッコイイ。
水門川は大垣市から南流し揖斐川に合流する運河です。
奥の細道の終点である結びの地は、あの有名な「奥の細道」の松尾芭蕉の像があった。
源義経が、熱田宿で生まれた兄の頼朝に逆賊として追われ、義経が頼った
奥州平泉の藤原秀衝に裏切られ、義経と奥州藤原秀衝との戦となり義経が自害した。
芭蕉はその奥州平泉の地で義経の残照を求め、古きを訪ね新しきを知りたくて、
奥の細道の道中をしたとも言われる。
その奥州藤原秀衝すら義経を匿った罪で、源頼朝に滅ぼされたが、
その源頼朝も相模川の下流を馬入川とも言い相模川橋の落成供養後に落馬をしてその後、亡くなったとされる。
このあり様を、芭蕉は奥の細道で「国破れて山川あり、城春にして青草みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪落とし待りぬ。夏草や兵どもが夢のが跡 は有名な盛者必衰の理
と、平安末期の1180~1185年の平治の乱の時代の歴史を語った。
(この像は大垣の船町で船問屋を営んでいた俳人の谷木因の像)
元禄二年(1689年3月27日)に松尾芭蕉は門人の河合曽良と江戸の深川より出発し東北・北陸を経てここ大垣で「奥の細道」の旅を終えた。
大垣で谷木因に迎えられた。
実はみらい三度笠は2020年4月にサイバー大八車で
東北地方の車中泊で江戸東京から高速で仙台に行き気仙沼、日本三景の松島や
岩手県平泉付近、
青森津軽海峡から日本海側の秋田山形、新潟、東京までの4泊の道中を続けて2回も旅した。松尾芭蕉の正確な奥の細道の東北の道中ルートではないが何となく雰囲気は分かった。北陸ルートは正確な自転車だったので、なんとなく「奥の細道」も終えた?みらい三度笠にも芭蕉の言葉の「不易流行」ふえきりゅうこう)が身に染みた?
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行知らざれば風新たなららず」は
「変わる事が無く変わらない基を理解してから、新しい流れを理解しないと
進歩はない」と、みらい三度笠は解釈した。
松尾芭蕉同様に、みらい三度笠も美濃路の自転車旅も大垣宿で終わりにしたくなる
豪雨が激しく降り出したので、公園の建物の軒先で雨宿りをして雨脚が弱まって
から、みらい三度笠の「温故知新」の、古を訪ね新しきを知る美濃路道中を再開した。
大垣城西総門跡(美濃路京口御門跡)を通り過ぎると、大垣宿本陣跡に到着した。
大垣城
城壁に沢山銃口がある城は珍しい大垣城。
高札場があった場所の説明の立て札
大垣本陣門などが現存した頃の写真
大垣宿から揖斐川を橋で渡る。江戸時代は大名行列は舟橋を架けたが、佐渡の渡しは
船で渡るので常夜灯がある。
佐渡常夜灯
これから墨俣宿になる。
続く。