みらい三度笠の道中ブログ

みらい三度笠が道中をします。

三浦アルプス横断 按針塚~大楠山~前田橋~天神島を一周 江戸時代 八重洲と三浦按針 shogun

 2022年1月に三浦アルプスと呼ばれる山を、ハイキングで東京湾側の按針塚駅から按針塚~大楠山~相模湾側の前田橋~天神島まで道中をした。

日本なのに何とかアルプスと言う地名の由来は?

「どうする家康」の放送前の、三浦アルプス横断道中記。

東海道五十三次で江戸時代に興味を持ち、按針塚や八重洲の歴史を調べていると意外な

由来がなかなか興味深かったのだ。

サイクリングで冬の三浦半島1周にも行った事があったが、地味に標高差はあり風がキツく、交通量も多く道路は道幅も狭いという12年前の印象。

横須賀海軍カレーが売り切れだった12年前の三浦半島

冬のダイコン畑の緑の葉っぱと海に続く風景が、冬の湿度の低さゆえにクリアに見通せる眺めは良かった。

江戸の八重洲と按針の地名の始まりは、1600年(慶長5年)4月に豊後国

九州大分県にオランダの商船デ・リーフデ号が漂着した事から始まる。

みらい三度笠は2022年4月に、九州旅行で長崎ハウステンボスにも行った。

オランダのテーマパークであり2017年まで復元されたデ・リーフデ号があったのだが、現在は模型と資料の展示のみとなってしまい残念だ。

その後にハウステンボスは経営会社が変わった模様。

 

九州旅行の実物大はこれがあったが、色がアニメじゃない

ザクマシンガンの直撃に耐える、装甲のガンダムである。

ヤン・ヨーステンは家康に火縄銃対策の防弾性の高い、具足を作ったと言われる。

その船舶のオランダ人航海士ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスが、徳川家康

信任を得て朱印船貿易を行い、ヤン・ヨーステンは内堀の武家地に領地を拝領した。

「耶楊子(やよす)海岸」と呼ばれ、その後は八重洲となった。八重洲の由来である。

江戸時代は周辺は埋め立て工事が行われておらず、海が近かった。

ヤン・ヨーステン邸宅跡の説明文とデ・リーフデ号像

現在の丸の内ビルディングの南側に、ヤン・ヨーステンの邸宅があった。

東京駅丸の内の行幸通りに架かる虹

 

東海道線の東京駅開通により八重洲は、現在の丸の内の位置から東側に移り現在の

位置で八重洲と呼ばれるようになった。

豊洲にある403機関車1886年製造と高輪築堤跡

東京駅駅は大正3年1914年に開業した。その当時の面影を残す高輪築堤は明治5年

1872年に国内初の鉄道開業時に海上に線路を敷設する為に作られた。

東京駅八重洲口エキチカ外堀1番通りにヤン・ヨーステン像がある。その隣に

津村順天堂のビルだった頃に作られた、パブリックアートキリン像がある。

1990年頃にみらい三度笠はこのキリン像を初めて見たが、もう少し綺麗だった。

現在は津村順天堂のビルではなく、所有は別会社に成っている。

御江戸日本橋麒麟像から東海道で二番目のパブリックアートキリン像

東京駅八重洲通りにある

お江戸日本橋からすぐの東海道八重洲通リの交差点にも、ヤン・ヨーステン像がある。ヤン・ヨーステンは祖国に帰国時に遭難し亡くなる。

イリアム・アダムスは相模国三浦郡逸見村(横須賀)で200石と、日本橋の町人地に邸宅を拝領し、日本橋室町の邸宅付近は近年までは按針町だった。

御江戸日本橋日本橋室町にある三浦按針の屋敷跡の史跡

英語の説明文



日本語の説明文


2022年1月にその按針塚のある、三浦半島の三浦アルプス横断のハイキング道中にサイバー大八車で車中泊をして行ってみた。

東海道生麦のよねまんじゅう

お江戸日本橋の按針から三浦半島の按針への道中ならばと、お江戸日本橋の歌で

歌われる、東海道の生麦のよねまんじゅうを買ってみたら餡入り餅だった。

サイバー大八車の車中泊が出来そうな場所を探した結果、相模湾側に車中泊をして翌日の早朝のスタート地点は三浦アルプスを横断する為に、三浦半島西側の逗子葉山駅から京急逗子線で此方から、わざわざ反対側の

京急逗子線

 

按針塚駅まで乗り換えて三浦半島の東側の東京湾の按針塚駅に到着して道中を始めた。

按針塚駅

案内板


按針塚駅の周辺は住宅が続く坂道を登ると、1km弱で20分で塚山公園に到着した。

塚山公園にある按針塚。

按針塚

三浦按針ことウイリアム・アダムスと、江戸日本橋大伝馬町の名主の娘である妻の

墓の供養塔がある。遺骨などは無い供養塔で右が三浦按針の凝灰石の供養塔で、

左が妻の安山岩の供養塔。

按針の遺言によりこの地に建てたと伝わり、周囲は大変眺めが良く海を見渡せる。

按針が亡くなった九州長崎県平戸にある、伝三浦按針墓にある遺骨をDNA検査をした

結果は按針と思われる、遺骨だとされている。

三浦アルプスの大楠山方面を目指し、按針塚から山中町へ下る。

下山隊道トンネルから、横須賀しょうぶ園に着く。

大楠山阿倍倉温泉口から自動車道横須賀線を抜け、葉山国際カンツリークラブの敷地を右に眺めながら、このゴルフ場を過ぎると

大楠山頂上への登山道

自然豊かな三浦半島の清流が流れていてとても癒される、三浦アルプスの天然水だ。

靴はジョギングシューズではなく、登山靴にすればよかったと後悔した。

ドッギャアアアン!そいつに触れることはタヒを意味する!

大楠山への来訪者への注意喚起があった。噂のカエンタケはこんな自然豊かな環境で
地中の毒素を凝縮しているとは、自家毒の中毒にならないのか?カエンタケの謎。

この辺はハイカーもボチボチ歩いている。

もうすぐ大楠山の頂上

大楠山頂上


標高241m大楠山山頂に到着した。富士山や海を全方位で見下ろし見渡せる絶景だった。

大楠山の秋冬の生き物たちツグミメジロキジバト・ツチイナゴ・カマキリ

大楠平から前田川沿いの登山道で下山して、下界の前田橋に到着して国道134号線を

ウオーキングで佐島の天神島まで行った。

佐島御船歌

     

天神島臨海自然公園

天神島をぐるりと一周の磯周りをした。

天神島を逆時計回りした。

500万年前は近くに火山があった。

天神島と隣の小さい笠島は凝灰石で地続きで出来ている。三浦層群が露出している。500万年前には付近に火山があり爆発により火山豆石などが形成された。

分かり易い解説の図が欲しい難しいお話

 

地殻変動により上下が逆転した地層も見られるという。

ハマオトモは昆虫たちが集まる

天神島のハマオトモ(ハマユウ)は、神奈川県の天然記念物に指定されている。

これで天神島を一周した

天神島臨海自然教育園の方の海岸から、笠島を見た。

笠島の祠と鳥居

天満宮

天神島の由来の天満宮。御祭神は菅原道真

創建は久里浜天満宮よりも古く、不詳とも15世紀頃と言われる。

これで今回の道中は完了した。

この後は京急バスで、サイバー大八車を停めた場所に戻り三浦半島の横浜横須賀道の

逗子インターチェンジから、横須賀御江戸東京に無事帰った。                                                                                                                                   

美濃路  萩原宿~稲葉宿~名古屋宿~熱田宿・宮宿 自転車 吉例街道 shogun そして伝説へ3

 


 令和4年 2022年5月の美濃路の自転車での道中記です。

新潟県糸魚川宿から北陸街道・北国街道を江戸時代の旧道でカーボンロードバイクの自転車旅を続け、北陸・北国街道の中山道との合流地点の鳥居本宿までの道中を5日間で完走して、5日目にそのまま続けて鳥居本宿から美濃路の垂井宿に移動した。

美濃路道中を垂井宿から出発して、起宿の先の一宮まで糸魚川宿から5日目で到着したのが前回までの道中記。

美濃路自転車道中は2日目で遂に、今回の長い道中は合計6日目で熱田宿・宮宿に

到着し東海道と合流して、この長い道中も無事に完走となる。

昨日の宿泊地の一宮駅の付近から、日光川付近の美濃路に復帰して道中を再開した。

雨は降ったり止んだりを繰り返しの為に、上下セパレート合羽は着たままの道中だが

東レの生地は揮発性が高く、蒸れずにサラッと快適だった。自転車は合羽のズボンの裾がチェーンオイルで黒くなり取れない、股の部分がサドルと擦れて縫い目の

シームテープがダメになり染みる。高いゴアテックスは勿体無いので、セブンイレブンのポンチョが、ていへんだぁYouTubrの勧め。

日光川を渡り美濃路道中を約30km目に萩原宿に到着した。

美濃路萩原宿問屋場跡の碑

美濃路萩原宿本陣跡の碑

萩原宿は美濃路と巡見街道が交差している。巡見街道とは江戸幕府による各藩の巡回

調査を行う巡見使の通り道の名称。萩原宿は巡見使の宿泊地だった。

時代劇の大江戸捜査網の隠密同心ではなく、公に巡見を行なっていた。

萩原宿は宿場の距離が短い宿場だった。

萩原宿では、全国選抜プロチンドン祭りが開催されている。

チンドン屋の発祥の歴史は古く、弘化期(1845年頃)に飴勝という人物の

飴売りの宣伝から始まった。

高木の一里塚跡を通過し光堂川を渡ると、美濃路の曲がりが多くなる。

江戸時代の宿場の道の造りで曲がりは、敵軍の勢いを落とす場所として作られる。

ほぼ七曲りのような美濃路の先は、稲沢市稲沢の稲葉宿に至る。

右つしま道と書いてある石碑

稲葉宿にある、右つしま道の石碑には埋没しているが三里と書いてある。

右つしま道

右つしま道は、この先は矢合(やあわせ)勝幡(しょはた)津島(つしま)への道

木曽川の大洪水とその支流は1400年までは佐屋川の上流に萩原川から流れる

天王川があり其処が津島湊があり栄え、かつては桑名に向かう四里の渡しだった。

その後天王川は土石が川底に溜まり水位が上がる河道閉塞となり埋め立てられて、萩原川と日光川に接続された津島湊から1785(天明5年)佐屋川街道の佐屋宿が栄え

佐屋川の三里の渡しとなった。約36kmで稲葉宿に到着した。

 

稲葉宿問屋場

稲葉宿の酒造

稲葉の街並み

稲葉宿の街並み

稲葉宿本陣跡ひろば

稲葉宿は稲沢と小沢の両村で、宿駅業務を行う合宿だった。

飛鳥・奈良時代の頃より不破関の垂井宿の美濃国府から、ここ稲場宿の尾張国府稲葉

そして東海道に至る道が美濃路の原型となる。

稲葉宿本陣跡ひろば

写真の撮影中に風が吹いただけで、軽いカーボンロードは立て掛けてもすぐに倒れる。

まさに風が吹けば桶屋が儲かるそのものなので、

カーボンロードにママチャリスタンドを付けたい!?

稲葉宿本陣跡ひろば

このご時世の近年に、江戸時代の史跡が再現された貴重な施設。

稲葉宿の周辺地図

稲葉宿の案内板

稲葉宿本陣の間取図

稲葉宿の当時の絵

国府宮神社(こくふみやじんじゃ)一之鳥居

国府宮神社は一之鳥居より参道の北に鎮座する尾張国府の総社で

総鎮守の尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)。

その別名が国府宮神社で、はだか祭りはニュースで良く報道される。

先を進み七曲がり縄手を通過しJR東海道本線の線路を越え、美濃路と岐阜への道の岐阜街道との分岐の、四ッ谷追分がある。付近に一里塚を示す石板がある。長良川で採れる鮎を鮨にして将軍に献上したので岐阜街道は鮎鮨街道とも呼ばれた。清須宿に入る。

美濃路は街中に結構あちこちに道筋の地図があるので道に迷わず助かる

道中約43kmで清須宿となり、この手前に清須代官所跡があった模様。

公園のトイレは豪華な作りの厠

雨は降ったり止んだりで、白いカッパを着たままでMS(みらい三度笠)

なまこ壁の厠に行きまーす!ドア板も壁も大理石で重厚な造りの厠だった。

清須宿本陣

 

清須宿本陣跡

 

清須宿本陣説明

江戸時代は美濃路で最も格式の高かった清須宿本陣跡。

清須宿の札ノ辻跡

 

鍵形の曲がり角には高札場が立ち、清凉寺の前が札ノ辻と呼ばれた。

美濃路清洲城

清須公園は美濃路にある、本当の清洲城跡で五条川が流れる。

この写真の石碑の右奥の東海新幹線の橋の奥に見えるのが、清洲城清須市の市政

100年記念で建てられた清洲城模擬天守閣で、立地と形状は清洲城の史実と異なる。

見学に行きたいが、立ち寄る暇の無い道中なので見物は出来ず。

清須市市政20周年記念のイラストは織田信長 鳥山明氏の作品

この作品の発表後にまさかの清須市出身で在住の、

故・鳥山明氏の夭折が報じられた。合掌。

清洲城跡の前に流れる五条川を渡る五条橋

清洲宿には五条橋があり、この先の名古屋宿には五條橋がある。条と條で紛らわしい理由は尾張国の中心地だった清須の城下町がまるごと、尾張から名古屋への移転をした。

その「清須越し」は徳川家康が慶長17年1612年から、元和2年1616年に

行った名古屋城築城と、碁盤割の城下町で発展を遂げた。

その名残で清須宿の五条橋と、移転先の名古屋宿に五條橋が存在している。

昔は清須宿も清須だったり清洲城だったりハッキリしないようだが、現在は清須という地名となった。

前田利家とまつの説明文

須ヶ口一里塚跡

新川は庄内川と五条河の洪水対策の水量調整の為に、1784年天明の治水で作られた

人工

の川

新川の治水の歴史

須川護陣屋跡 

新川の新川橋西詰めに、清須川護陣屋跡があり清須宿の高札場があった。
津島街道の起点を示す古い石碑もあり、津島街道が名鉄津島線に沿うように津島駅

天王川公園まで繫がっている。1400年頃に佐屋川に繫がる天王川が土石の滞留で

河道閉塞により港が廃止されるまで、船着き場の津島湊が廃止されるまで熱田宿・宮宿より桑名宿への四里の渡しがあった。その後、佐屋街道の三里の渡しとなる。

西枇杷島石碑

屋根に屋根神様を祀る家屋のある、町を通過する。

西枇杷島(にしびわじま)橋詰の庄内川の前に美濃路の石の道標は文政十年(1827年)に旧枇杷島橋小橋の袂に建てられた。

石碑に書かれてる内容は、にしハつし満(ま)てん王(のう)うきよす宿みち

飛(ひ)がしハとうかゐたうなごや道 文政十年丁亥七月吉日い主(わ)くら道

尾張名所図解を立体化した石造

尾張名所図解に描かれる絵を立体化し石像にした、にしび夢だいこんの像。

江戸時代は青物市場として栄えた。

枇杷島

名古屋市西区枇杷島から庄内川枇杷島橋で渡ると、欄干に尾張名所図解の

枇杷島橋の銅版画があった。

庄内川枇杷島橋で渡った清須市

渡った先は清須市西枇杷島町となる。庄内川を渡っても枇杷島が続くのはしょうない。

 

白山神社 押切榎権現

美濃路の榎白山神社、押切榎権現で、織田信長豊臣秀吉と共に桶狭間の戦いの前に

戦勝祈願をした神社。

美濃路掲示される榎白山神社の説明版。

押切町樽谷屋町の大木戸跡

美濃路道中を約53km目で、名古屋宿に着くと宿場の大木戸跡がある。

名古屋城城下には3つ大木戸があった。大木戸とは城下町の治安維持の為に夜間閉められる大きい木戸の事で、美濃路には2つの大木戸があった。その1つが押切町と樽谷町の大木戸跡で現在は、江川どんぐり広場になる。

美濃路は幅下公園となごや小学校を通過している。

付近に消えた一里塚があったらしい。

名古屋宿の名古屋城の城下町に到着した。

名古屋宿に江戸時代は名古屋宿本陣や脇本陣などは無く、諸大名は御三家に配慮して

名古屋に宿泊はしなかった。中山道の高崎宿も本陣が無かったと思い出した。

名古屋東照宮には、訪れる時間が無かった。

五條橋の石柱 南 宮宿 東海道

真新しい五條橋の道標石柱

弁慶湯跡

かつては盛り場だった五条橋たもとに、弁慶湯という銭湯があった。

みらい三度笠はサイクリング途中に、足湯や入浴をすると眠くなり道中が終了してしまうので道中の終わりまでは入浴をしない。

円頓寺アーケード商店街

 

美濃路五條橋から少し寄り道してみる。

貞松院下屋敷

円頓寺商店街

金の織田信長

こういうのが見たかったので、寄り道したのは正解だったようだ。

 

銀の豊臣秀吉像は笏(しゃく)の棒が欲しい

徳川家康像は居ないようですが再び、幸せを訪ねて美濃路に戻ります。

カリオストロの城・・・じゃなくて名古屋城の城下町の四間道(しけみち)。

四間道

四間道は慶長15年(1610年)徳川家康加藤清正福島正則ら大名達に命じ

名古屋城の築城と共に開削された堀川を作る。その舟運を利用し発展した商人の町。

四間道説明

後の元禄13年(1700年)の大火で延焼を防ぐ為に四間道(7m)幅の道幅にした事が四間道の由来と呼ばれる説もある。

伝馬橋

大須観音への仁王門通りアーケード

名古屋城

古渡町交差点の古渡一里塚跡を探したが、見当たらず桜の木が目印らしい。

古渡一里塚付近の和菓子

江戸時代末期の寛永元年(1848年)より続く老舗の和菓子店の

イートインで一休み。和菓子の見た目も味も丁寧だつた。

その先は金山新橋南交差点の佐屋街道への美濃路との分岐点の道標がある。  

佐屋海道とも呼ばれた。

佐屋街道

美濃路佐屋街道は、熱田宿・宮宿の東海道から此処までは同じ道である。

みらい三度笠は初めて東海道五十三次のお江戸日本橋から京都までを

自転車道中をしたのが2010年12月だった。

その後3回は東海道五十三次を自転車で走破し、徒歩での東海道五十三次は1回の合計4回の実績であるが、旧道道中的にはまだヒヨッコレベルらしい。
宮宿・熱田宿から桑名宿への道中は江戸時代は七里の渡しの船旅だからと、国道1号からか、電車移動ばかりで、今まで佐屋街道を時間の節約で佐屋街道の道中は未走破だった。

金山駅を越えると東海道中で見慣れた、風景の広い道幅の車道R22線の美濃路になる。

美濃路で熱田宿・宮宿に遂に到着をした。

 

源頼朝の出生地

源義朝熱田神宮の大宮司である、藤原季範の娘の正室の由良御前との子である

源頼朝が此処で出生した。初代征夷大将軍と言われる。

門のみ残される。

熱田神宮鳥居

熱田宿・宮宿の熱田神宮に到着をした、

今回は北陸街道で越の国から中山道合流の鳥居本宿を終えて、そのまま美濃路の垂井宿からの熱田宿となる。

これで5回の熱田宿に道中をしたことになる。

6日間の道中が体調も良く、メカトラブルやパンクも無かった事に感謝した。

かつての源太夫社(上知我麻神社)の場所付近

美濃路を垂井宿から熱田宿・宮宿まで走り、東海道との合流地点で約59kmの

美濃路の旅は終わった。

(江戸時代の美濃路の全長は、14里24町15間約57,5kmある。)

今回の北陸街道の約290kmと美濃路の約59kmで約349kmを

5泊7日の江戸時代の道を辿る道中が終わった。

七里の渡しで、この美濃路を本当に完走する。

東海道中だけではこの意味への理解が薄かったと、美濃路道中で分かった

なじみの東海道の道標

東海道五十三次道中で見慣れた、東海道の道標を見るとホッとした。

七里の渡しの時の鐘

熱田湊常夜灯



七里の渡し船着き場跡

熱田湊の七里の渡しはこれで5回目だ。

北陸街道・北陸街道の糸魚川宿から古事記に記載されるヤマタノオロチ伝説の越の国を出発し北陸街道と中山道の合流地点の鳥居本宿に到着し続けて、雨が降る美濃路

垂井宿から熱田宿・宮宿までの道中は三英傑達の吉例街道であるばかりではなく

日本神話の伝説を追う様に完結した。

帰り際の昼飯に名古屋の間延びする物言いの味噌煮込みうどん屋に、うどんではなく、短く切れたすいとんモドキを出される嫌がらせを受けた。名古屋は相変わらず商いでもマウント志向の観光地だと思った。

古の伝説の時代からの戦国の世の頂点を目指した武将達の、吉例街道での生きざまを史跡で辿る様な道中であった。

その後、新幹線で江戸のワンルーム裏長屋に戻った、うだつの上がらないていへんだぁYouTubrのみらい三度笠には美濃路こと、吉例街道の道中が人生大逆転街道の

旧道流離譚と成ったかは、分からないそうじゃ。

めでたしめでたし。
おしまい。

美濃路 墨俣宿~起宿 自転車 吉例街道 shogun そして伝説へ2

美濃路 旧道 墨俣宿~起宿 自転車 吉例街道 shogun そして伝説へ2

今回も美濃路道中1日目に大垣宿から揖斐川佐渡(さわたり)の渡しで

川を越える。

その手前に佐渡の渡しの常夜灯があった。揖斐川渡りさらに進むと墨俣宿に入り

東結の一里塚がある。

東結(ひがしむすぶ)の一里塚

県道171付近から美濃路は、源頼朝鎌倉街道と重複する事が多くなる。

鎌倉街道とは、治承・寿永の乱(1185年)で平家に勝利した源頼朝清和源氏)が

開いた武家政権鎌倉幕府の危機に際し、迅速に武士が馳せ参じる為の街道で、

いわゆるイザ!鎌倉への道であるが、今や道筋の痕跡が分かる事は珍しい。

犀川と並走するような美濃路を進むと犀川長良川が、合流する付近が犀川遊水地になる。約26kmで墨俣宿となる。

墨俣宿脇本陣

脇本陣から進むと津島神社秋葉神社があり鳥居の横に、文化財琉球使節通行記念灯篭がある。

寛永3年1791年に琉球國儀衛延柱書と刻銘文を石灯籠用に執筆を願い作成した

石灯籠がある。その先に墨俣宿本陣跡

墨俣宿本陣

墨俣宿本陣跡碑と常夜灯

長良川の手前を流れる天王川を渡らず美濃路の傍の、一夜城に行ってみた。

一夜城

太閤出世橋

太閤出世橋に到着した。これで歴史の教科書で勉強し妄想し続けていた場所に来れた。

うだつの上がらぬていへんだぁYouTuberのみらい三度笠にやっと巡って来た幸運か?

これが想像していた一夜城?

まあ何という事でしょう!あの河原に一夜にして空にそびえる黒鉄の城が!?

これは一夜城の観光資料館の建物であり興味深いのだが道中の時間に余裕が無い。

実際の一夜城はこっそり夜闇にまぎれて川に木材を流して、木材のバリケード

囲った陣地だったが、この劇的城塞ビフォーアフターな匠の技で、木下藤吉郎こと

太閤豊臣秀吉は出世した。瓢箪から駒のような一夜城であるが、中国の仙人の張果老

乗っていたロバを畳んで、瓢箪に入れていた事から出来たのが瓢箪から駒という言葉。

この場所では太閤の姿でも木下藤吉郎の像

羽柴秀吉が信長に仕え、美濃国秋葉山城を攻める時に秀吉が武将の馬の位置を示す

馬印として瓢箪を合図として使い勝利して、信長に馬印として瓢箪を使うことを許された。美濃路での出世物語の一つか?

瓢箪の像

太閤秀吉出世の泉

出世の泉の水を飲んだが、出世しそうに旨かったがのどが渇いていた事に気が付いた。

瓢箪から水を飲む行為は、現代人には未体験ゾーン。

 


秀吉の功績ごとに瓢箪が増えた千成瓢箪「せんなりひょうたん」は江戸時代の大衆小説の創作だったと言う。江戸時代の人も現在の人々と変わらない歴史のネタ化が好きだった。

日本でも古来、瓢箪は邪気を封じ込める末広がりの縁起物とされている。

中国の西遊記でも孫悟空を苦しめる、妖怪の金閣銀閣が使う名前を呼び返事すると

吸い込む瓢箪(紫金紅葫蘆・しきんこうころ)は道教老子を神格化した神様の

太上老君の物で、その眷属の金閣銀閣が使ってるのは実は妖怪ではなく三蔵一行に

試練を与えていただけだった!という驚愕展開はあまり知られていないし、アッシも

知らなかった。

江戸時代の美濃路の歴史考察に、知力を入れるべきだと思いつつ好きなこと書いていまう。

太上老君の持ち物が使われいる。西遊記の原作が奇伝作品化したのは中国の明の時代

1600年位で意外に新しい作品だった。原作漫画ドラゴンボールでは瓢箪は

未登場だが、

ホイポイカプセルが瓢箪的なアイテムな気もする。アニメ版のオリジナル展開で

金閣銀閣北斗の拳的なモヒカン頭のキャラの、金閣銀閣が登場する回があった。

これも松尾芭蕉の「不易流行」である?!

長良川は当時は墨俣の渡しで船で渡っていた。将軍や大名行列朝鮮通信使の通行時は

舟橋を架けていた。続く境川も小熊の渡しも同様だった。

境川の先にある西小熊の一里塚跡

消えた美濃路ルートは、今回は道中は時間の都合で通過せず。

消えた美濃路の看板があった。

坂井村を新しい道ルートで美濃路道中。

区画整理で消失した旧道や、美濃路道中を始める前に調べた資料に存在したはずの、

一里塚跡等の史跡が見当たらない事があった。

鎌倉街道の道筋同様に時代の流れで江戸時代の史跡も、時の流れで風化や維持管理の

財政難から、記憶から失われつつある。昭和な飲食店ですら同様にもはや絶滅危惧種

なので駆け込んで訪れたい。

羽島市 不破一色の一里塚跡

旧道の歴史の説明看板付きは珍しく、しかも近年の建立。

木曽川の渡し跡に到着すると、大浦(三ツ屋)の道標の石碑があるが写真は看板のみ。

木曽川の渡し大浦(三ツ屋)の道標の説明看板

起渡船場

木曽川を渡る起の渡し跡の説明看板がある。

現在は土手の道路を更に南下して、濃尾大橋で木曽川羽島市から一宮市へ渡るのだが

その手前の土手の道に、濃尾大橋完成時にここに移動した起渡船場破石灯台がある。

約30kmで起宿となる。

濃尾大橋で川幅の広い木曽川を渡ると、手の様なモノが川の真ん中あたりにあった。

スケキヨみたいなこの木を引き出すと、木曽川ゴミを全部出して千と千尋
よきかな展開が?

どうして浸水が深そうな場所に滞留しているのかよく分からない流木は、

この木何の木、気になる木曽川

一宮市定渡船場

起渡船場は上流から上・中・下の三か所の船着き場があり此処は上流の

定(じょう)渡船場跡には、金毘羅神社が祀られる。

常夜灯

定渡船場から次の宿場である、起宿(おこしじゅく)に到着する。

旧湊屋店舗兼主屋・土蔵

なまこ壁風の公衆トイレというか江戸時代風の厠と言うべきか。

宮河戸跡

三つある船着き場の真ん中が大明神社の西側にあり、宮河戸と呼ばれ大藩の通行など

定渡船場だけでは対応出来無い時の船着き場。下流は舟橋河戸と呼び、将軍や大名や朝鮮通信使などが渡る舟橋。

起宿本陣跡と起宿問屋場跡の石碑

起宿脇本陣

起宿脇本陣の歴史民俗資料館に閉館時間寸前の来訪者になりそうな私が来ると、此処の職員が外に居た。元より見学の道中の時間も無く外観のみの写真撮影で手間を取らせず通過した。

富田の一里塚の夕日

富田の一里塚は美濃路で唯一の左右両方に、エノキの塚木が残っている一里塚。

 

あいさつ

サヨナラ!美濃路起宿!と一人であいさつして、本日の美濃路と北陸街道は起宿まで。

一宮駅の近くの宿に向かう途中のうなぎ屋で、晩の道中メシは鰻重にした。

晩飯のうなぎ重は旨いがタレの味付けが粗目で甘さも合わなかった。

みらい三度笠は江戸っ子でも、醤油とみりんと砂糖の味でもみたらし団子が嫌いだ。

群馬や栃木の甘じょっぱい焼きまんじゅうの味噌、水飴、ざらめのタレは好みという、味覚なので、関西方面はうなぎの焼き方と味付けが好みに合わない事が多いが、

各地の道中での食べ比べは楽しみだ。

一宮駅の街に謎のオブジェが多数あった

一宮駅の近くの宿に泊まる

今日は新潟の糸魚川宿から北陸街道道中を5日間連続で、自転車で岐阜の鳥居本宿まで走り、疲れも溜まっていたので宿に着くと、かつてなく眠い。この時点の2020年5月は街も宿も観光客も少ない。ハンドル右側のブレーキレバー下が折れかかった状態は、何とか持ちそうで最終日を迎えられそうだと安堵したが、睡眠の質は良くないが早々に眠りについた。

そして夜が明けた。道中6日目で美濃路道中で最後の朝食

翌朝は今回の北陸道美濃路の道中が最終日の6日目となる。

元気の源の栄養バランスに、気を遣い道中の野菜不足は大体納豆で補うみらい三度笠であったが、この時は出来ればお酢がぜひ飲みたかった。

実は20年位前からみらい三度笠は、美濃の無農薬玄米酢だけを買い続けている。

毎日飲んだり料理に多用し続けており、生まれも育ちも江戸っ子でながらみらい三度笠の腸内環境には、美濃で作られるお酢美濃路の気候風土に漂い醸される酢酸菌(さくさんきん)が20年前から常在善玉菌として存在している。

美濃で醸されたお酢の酢酸菌がみらい三度笠の腸内に約20年位は常在菌として有る

その腸内にある美濃由来の酢酸菌は善玉菌として腸のバイエル機関の、免疫力向上の

スイッチを押して、悪のウイルス対策も続けているのだ。

その脳腸相関は健康やストレスや感情に関わり、第二の脳である腸内の美濃由来の酢酸菌が腸からみらい三度笠の頭脳に指令を送り、コントロールして美濃産の酢酸菌がその故郷の、美濃路への道中をみらい三度笠にするように、遥か昔の20年前から既に

美濃路へと導かれる縁があったのだろう。

気が付かずに腸に美濃路へと誘導されていた?

この道中記はバイオみらい三度笠の、かゆうま道中記かも。

お酒の完全体であるお酢で、疲れも取れてパワーアップの図





続く



美濃路 垂井宿~大垣宿 自転車 吉例街道 shogun そして伝説へ1

     美濃路自転車旅 垂井宿~熱田宿まで 2022年5月の道中記  

 中山道東海道を繋ぐ美濃路は、中山道の宿場の垂井宿から

2021年4月YouTube中山道サイバー大八車道中での垂井宿長松城跡一里塚

東海道の宮宿・熱田宿(愛知県名古屋市)を結ぶ脇往還である。

2021年1月YouTube東海道五十三次の徒歩道中での宮宿の七里の渡し

江戸時代の美濃路の全長は、14里24町15間約57,5kmある。

中山道の垂井宿、大垣宿(岐阜県大垣市)墨俣宿(岐阜県大垣市

起宿(愛知県一宮市萩原宿(一宮市)稲葉宿(愛知県稲沢市清洲宿(愛知県清須市)名古屋宿(愛知県名古屋市)の七宿があり宮宿・熱田宿で東海道中山道

合流地点となる。

*此処から暫く美濃路の歴史や、みらい三度笠の今回の道中に至る感想になります。

慶長5年1600年天下分け目の関ケ原の合戦で、始めに福島正則が先方として清州城から進軍し、徳川家康関ケ原の合戦で勝利した後に、

     2019年5月中山道六十九次自転車道中での、関ケ原の桃配り山の写真

徳川家康関ケ原からの帰路を、凱旋した道である事から、美濃路はお喜び街道・

吉例街道とも呼ばれる。

それ以前にも美濃路では熱田神宮の源太夫社から「敦盛」を舞い出陣をした織田信長が、今川氏との桶狭間の合戦で劣勢の織田軍が今川軍に逆転勝利した。

太夫社・上知我麻神社の元の位置にある看板。現在は熱田神宮境内の南門付近に祀られる

箱根峠の小田原征伐1590年の兜岩 
2021年12月YouTube東海道五十三次徒歩道中より

美濃路を通った豊臣秀吉は、北条氏との戦いの小田原征伐で勝利した道でもあった。

その後、五街道と同じく、江戸幕府の道中奉行の管理下の元で道幅、松並木、一里塚、宿場、助郷五街道並みに整備されていた。

東海道鈴鹿峠越えや、海路となる宮宿から桑名宿への「七里の渡し」よりも、天候などに左右されず安全な通行が可能だった為に

女性や多くの旅人が利用した。徳川家康、秀忠、家光など将軍や参勤交代の大名や

朝鮮通信使琉球王使、お茶壷道中、将軍に献上された象も通った。

 そしてこのブログの前回までのあらすじは、2022年5月にみらい三度笠は北陸街道を新潟から、中山道との合流地点の鳥居本宿までを5泊6日でフルカーボンロード

バイクの自転車で走破した。

2022年5月北陸街道自転車旅のゴール地点の鳥居本宿

北陸街道を糸魚川宿よりスタートした時点で、カーボンハンドルの右側のブレーキブラケットバンド下が、折れかけていてカーボン繊維で何とか繋がっている状態に気が付いた。

修理不能の状況なのでそのまま山岳地帯のダートを走り、北陸街道のゴールの鳥居本宿に到着したのだが、交換修理の時間も無いので、そのまま折れたかかったハンドルの

ステム一体型フルカーボンハンドルで美濃路の自転車旅を続ける事にした。

美濃路の道中はハードな未舗装林道の走行は無い。

中山道の垂井宿から、東海道の宮宿を繋ぐ脇往還道の美濃路を自転車で道中を続ける

その理由は単に旅費の経費削減と、お江戸東京からの移動時間の効率化であるが、

今にして思えば偶然にも、今回のみらい三度笠の北国・北陸街道の自転車道中は

越の国の新潟県の駅に奴奈川姫の像のある、糸魚川産の翡翠をお守りで購入して

道中の安全のお守りで身に着けての、北陸街道の道中を振り返ってみる話が暫し続く。

糸魚川駅 奴名川姫像 2022年5月北陸街道自転車旅  

         俱利加羅峠  2022年5月北陸街道自転車旅

木曽義仲軍が平家軍に放った火牛計の像

源氏と平家の争いである治承・寿永の乱は1180年から1185年まで続いた。

          此処は俱利加羅峠の戦場の地獄谷

1183年で木曽義仲は、10万とも言われる大軍の平家軍に火牛の計を使い

この谷に平家軍を追い落とし勝利した。

源義仲木曽義仲)は、平家が支配していた都に上ると京で木曽義仲

征夷大将軍の地位を賜り京の警備を任されたが、配下の者が京での略奪などの

狼藉を働き京の治安を逆に悪化させた。

それは平家との命懸けの戦いで、木曽義仲の家来らに褒賞を与えられない故の事で乱取りとも言われる。

後白河法皇を幽閉をするに至り、源頼朝ら鎌倉勢に木曽義仲は討伐をされ滅ぼされた。

その後の征夷大将軍源頼朝となった。徳川家康の前にも征夷大将軍は存在していた。

俱利加羅峠を越えて北陸街道自転車道中で、

福井県の古市付近の九頭竜川付近で宿泊したが、付近にある九頭竜川という名は、まるでヤマタノオロチのようだが違うそうで、斐伊川の方が荒ぶる河川の様子から

その説がある。

出雲国風土記日本書紀など諸説あるが、古事記によると高志之八俣遠呂智と言われ、ヤマタノオロチは高志(越の国)から来るとされており、出雲国高天原を追放された素戔嗚(スサノオ)がヤマタノオロチに生贄にされる櫛名田比売クシナダヒメ)を櫛に変え身に着けてヤマタノオロチに強い酒を飲ませ、寝た所を十挙剣で切りヤマタノオロチを倒したが尾の部分で十拳剣が刃こぼれをした。

その原因のヤマタノオロチの、体の尾から剣が出てきた。

古事記では都牟羽(つむは)の太刀と呼ばれ、草薙剣天叢雲剣とも言われる。

その剣を天照大神に献上して、高天原で狼藉を働き追放されていた素戔嗚は

櫛名田比売と夫婦となり出雲国を治めた。これが日本の貴種流離譚とも言われる。

           三種の神器        
                       画 いらすとや

それが三種の神器の一つである、草薙剣である。 

その後、日本武尊の東方征伐の神話の後に、宮宿、熱田宿の熱田神宮に奉納された。

源平の合戦で壇ノ浦の海に沈んだ草薙の剣は、形代と言われる。

そう、今回のみらい三度笠の2022年5月の北国街道、北陸街道から連続の

美濃路自転車道中は正に、日本神話の伝説の足跡を辿るが如き旅だった?

さらに本題から話が飛ぶが実は2022年5月の北国街道、北陸街道自転車道中と

美濃路自転車道中の直前に、みらい三度笠は交通機関を使い、2022年4月に

九州旅行に行ったのだ。

2022年4月 太宰府天満宮の鳥居

太宰府天満宮に初詣りした後に、俱利加羅峠から京で平家都落ちの戦の1185年の

壇ノ浦の戦いで平家は敗れ、三種の神器安徳帝と供に御入水をした。その剣だけ見つからないままの

壇ノ浦に雨の中出かけた。

関門トンネルの人道の海底歩道を歩きで九州の門司側と、山口県下関側を往復した。

2022年4月 壇ノ浦 安徳帝御入水処 平知盛源義経の像雨

そして、平安時代から時は385年程も流れて戦国時代の武将達の中でも、織田信長平家物語が題材の曲舞の幸若舞「敦盛」の芸能を好んで舞った。美濃路の熱田の源太夫社で舞い、その後に桶狭間の戦い(1560年)に進軍し、大群の今川氏に逆転勝利した。それが有名な

「人間五十年下天の内にくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を享け滅せぬ者のあるべきか」である。


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この平家物語源頼朝も、名古屋の熱田の出生である。

最近リメイクして人気の作品となったSHOGUNこと、征夷大将軍徳川家康

その幸若舞を保護し、徳川家康は本来の名は松平家康で藤原氏の家系を名乗っていたが、征夷大将軍の称号を賜る為に源氏の家系である由緒を、群馬県太田市世良田の

源氏新田義季氏の家系を名乗り、その徳川氏(徳河))から子孫である松平氏なので

徳川氏と改名した。

2021年の日光例幣使勅使道の自転車旅の道中で立ち寄った世良田東照宮

世良田東照宮 

徳川家康は幼名の竹千代の名の頃、今川氏に人質として送られる途中で、

護送役に裏切られ織田氏の人質として、家康は熱田宿の万松寺で織田家に捕らわれ

の人質生活が続いたという。

そして後の関ケ原の合戦での勝利の後、美濃路・御吉例街道(おきちれいかいどう)で清洲城へ戻り家康は後に征夷大将軍となった。

これも貴種流離譚という事だろうか、しかし信長、秀吉同様に名古屋を都にせずに

家康は江戸を都とした。

熱田神宮に祀られる草薙剣にまつわる伝承において、日本武尊安徳帝源頼朝

源義経、戦国時代の織田信長豊臣秀吉の運命とは異なり徳川家康の辿った

軌跡だけが天下統一達成と、徳川幕府が長期政権だった理由は謎である。

美濃路自転車旅 2022年5月の始まりは此処から。

美濃路自転車旅の前の北陸街道・北国街道の糸魚川宿から鳥居本宿までの5日間の道中では自転車を山中で雨に降られず、泥だらけで押し上げる苦労も無かった。

ほぼ晴れの道中だったが、古事記の伝説にもある熱田宿こと宮宿を、目指す美濃路の道中を始めると雨が降り始めた。伝説では天叢雲剣の近くは雨になると言われるとか。

道中で使い続けボロくなった、白い上着とズボンの2つのセパレート雨ガッパを着て、カッパ2(活発)にフルアーマーみらい三度笠は出発した。

美濃路とは飛鳥、奈良、平安時代には東海道尾張国国府を経由し、美濃国にまで国府で繋がる東山道(古の中山道の呼び名)の不破関までの道であった。

鳥居井本宿から米原(まいばら)駅までを、自転車で北国街道で戻った。

北国街道の米原宿は旅籠かめやの前の、中仙道の番場宿へ分岐点があり

その切通しの道で大阪への物流を行い繁栄をしていた。

 米原駅はかつて琵琶湖と入江内湖を掘削して接続した米原湊の船着き場だった。

米原駅から輪行中山道垂井駅に到着した。

  垂水宿  垂井駅前の地図看板  2022年5月美濃路自転車道

 この日は午前中に北陸街道の最終日の木之元宿~鳥居本宿の約29kmの道中を

終えて糸魚川宿~鳥居本宿まで江戸時代の北陸・北国街道自転車道中の5泊6日で

約290kmを無事に完走した。

続けて5泊6日目の実質道中連続6日の午後から美濃路中山道の垂井宿から

東海道の宮宿までの距離約57,5kmの自転車道中を開始した。

実際はもっと寄り道してます。

 垂井宿の入り口の東見付 此処で役人が大名行列を迎え入れた

垂井宿(岐阜県大垣市

この東見付に江戸時代は相川に橋は無く、人足で渡った相川渡し人足跡がある。

垂井宿から相川橋を渡る。5月5日までは大量の鯉のぼりが河川に渡される。

    垂井宿追分道標 美濃路中山道の分かれ道

江戸時代は美濃路に多くの松並木があった。

現在も大きい松並木が殺風景にアスファルト化した、美濃路で江戸時代の道中の

雰囲気を思い起こすので、今後も松並木を残して欲しい。

かつての綾戸の一里塚は現在は消滅し発見出来ない。

垂井宿から薬5km程で西大垣に到着をした。此処が既に大垣宿の西見付を過ぎた

のか?

北国街道での朝食から、12時もとっくに過ぎた頃なので腹のホトトギス虫が鳴くので、サイコロチャーシューのラーメンを食べた。

北国街道から美濃路道中でも、ラーメンのコロチャー文化圏が続く。

美濃路の道中は最後まで、雨は降ったりやんだりを繰り返す事となる。

 久徳の一里塚 今回の道中で最初の一里塚で片側のみ残る。

杭瀬川の静里町塩田常夜灯
明治13年に航行する船舶の安全と標識として、そして
伊勢両宮の献燈として建立された。 
平成30年の台風で破損した。

垂井宿から約9kmほどで大垣宿の中心と言える場所に着いた。

     大垣宿は現在の岐阜県大垣市竹島町付近

大垣宿の水門川の船町港に浮かぶ和船 

和船の船上カバーが近代的なデザインなので、カッコイイ。

水門川は大垣市から南流し揖斐川に合流する運河です。

水門川の船町港の住吉常夜灯 天保11年(1840年)に建立し高さ約8m

奥の細道の終点である結びの地は、あの有名な「奥の細道」の松尾芭蕉の像があった。

源義経が、熱田宿で生まれた兄の頼朝に逆賊として追われ、義経が頼った

奥州平泉の藤原秀衝に裏切られ、義経と奥州藤原秀衝との戦となり義経が自害した。

芭蕉はその奥州平泉の地で義経の残照を求め、古きを訪ね新しきを知りたくて、

奥の細道の道中をしたとも言われる。

2021年12月の東海道五十三次徒歩道中YouTubeでの藤沢宿

その奥州藤原秀衝すら義経を匿った罪で、源頼朝に滅ぼされたが、

平安末期の旧相模川橋脚 2021年1月東海道五十三次徒歩道中YouTubeの平塚宿

その源頼朝相模川下流を馬入川とも言い相模川橋の落成供養後に落馬をしてその後、亡くなったとされる。

このあり様を、芭蕉奥の細道で「国破れて山川あり、城春にして青草みたり」と笠打敷て時のうつるまで泪落とし待りぬ。夏草や兵どもが夢のが跡 は有名な盛者必衰の理

と、平安末期の1180~1185年の平治の乱の時代の歴史を語った。

      (この像は大垣の船町で船問屋を営んでいた俳人の谷木因の像)

元禄二年(1689年3月27日)に松尾芭蕉は門人の河合曽良と江戸の深川より出発し東北・北陸を経てここ大垣で「奥の細道」の旅を終えた。

大垣で谷木因に迎えられた。

実はみらい三度笠は2020年4月にサイバー大八車で

東北地方の車中泊で江戸東京から高速で仙台に行き気仙沼日本三景の松島や

松島 2020年4月東北地方のサイバー大八車の道中の写真

岩手県平泉付近、

2020年4月サイバー大八車の東北地方道中の東北自動車道の前澤SA(下り)

 

青森津軽海峡から日本海側の秋田山形、新潟、東京までの4泊の道中を続けて2回も旅した。松尾芭蕉の正確な奥の細道の東北の道中ルートではないが何となく雰囲気は分かった。北陸ルートは正確な自転車だったので、なんとなく「奥の細道」も終えた?みらい三度笠にも芭蕉の言葉の「不易流行」ふえきりゅうこう)が身に染みた?

「不易を知らざれば基立ちがたく、流行知らざれば風新たなららず」は

「変わる事が無く変わらない基を理解してから、新しい流れを理解しないと

進歩はない」と、みらい三度笠は解釈した。

松尾芭蕉同様に、みらい三度笠も美濃路の自転車旅も大垣宿で終わりにしたくなる

豪雨が激しく降り出したので、公園の建物の軒先で雨宿りをして雨脚が弱まって

から、みらい三度笠の「温故知新」の、古を訪ね新しきを知る美濃路道中を再開した。

町道標 左江戸道 右京みち

大垣宿の美濃路ルートが赤い線で描いてある案内看板

大垣城西総門跡(美濃路京口御門跡)を通り過ぎると、大垣宿本陣跡に到着した。

 大垣宿本陣跡 

大垣宿問屋場跡 大名行列の伝馬、人足の継立を差配や飛脚の伝令の施設

 

        大垣の和菓子その1

大垣の和菓子その2水まんじゅう

 

 大垣城

城壁に沢山銃口がある城は珍しい大垣城

高札場があった場所の説明の立て札

大垣本陣門などが現存した頃の写真

大垣宿から揖斐川を橋で渡る。江戸時代は大名行列は舟橋を架けたが、佐渡の渡しは

船で渡るので常夜灯がある。

佐渡常夜灯

これから墨俣宿になる。

続く。

令和6年2024年の来年の甲辰年の主題歌ならば、摩訶不思議アドベンチャー!

 来年令和6年2024年甲辰年に相応しい、タイトル連呼系の主題歌ならば

摩訶不思議アドベンチャーだ。

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名古屋近辺は、熱田神宮徳川家康岡崎城の龍城神社がある。

漫画家の鳥山明ドラゴンボールや、ゲームのドラクエキャラクターデザインの

発祥の地は清須城のある、清須市でもある。

*このブログを書いた後、2024年1月に清須市20周年記念のロゴのキャラを

鳥山明が描いたが、清須城の初期の城主の織田信長がデザインだと思う。

千と千尋の神隠しの油屋は、清須城がモデルという説もある。

千尋におにぎりをくれた、ハクという登場人物は白龍である。

みらい三度笠も冬の徒歩での、東海道五十三次道中で愛知県岡崎の岡崎宿のレトロな

龍城温泉で体の芯まで温まり、道中の疲れを癒した思い出がある。

君たちはどう生きるか を観た感想 ネタバレあり

 作品の事前の宣伝は全く無しで、鳥の被りモノの人物の絵だけ発表された

映画だったのでおそらくエンターテイメント性は、あまり無いだろうと予想された。

ハウルの動く城までは宮崎作品は東映まんが祭り的な、家族で楽しめる娯楽作品

だった。

風立ちぬあたりから、引退詐欺で作風が地味な宮崎の私小説的なモノになり、

今回の君たちはどう生きるかの作風も、ミヤザキの人生の投影まんが走馬灯的私小説祭という地味な作品だったという印象で、ラストのオチも特に感動も無い。

私が一番好きな千と千尋の神隠しが10点だとすると、7,5点位だった。

自転車人力車の客席椅子のバネの沈み込みの表現がリアルなのが、メカに拘りのある

宮崎作品らしく、ギチギチするバネの音が女性の重量感を良く表現していると思った。

偶然だろうがワンパンマンのフェニックス男の後に、少年の心を惑わす鳥人間の展開は似ていたが製作期間を考えると偶然だろうが、ネタの後出し感があった。

両方の作品の優劣を決める、鳥人間コンテストなのか?

アオサギとは、辞める辞めるサギの宮崎監督自身の、投影まんが祭りなのだろうか。

ラストのオウム大王あたりは、漫画版ナウシカのラストのヒュドラっぽい残酷さが

あり、ナウシカ続編アニメの噂は此処から来ているのかと思った。

本編上映前の別の映画作品の宣伝でジブリっぽい絵の、別会社のアニメの宣伝が流れていたが宮崎監督後を継いで、積み木を重ねられるアニメの監督は現在日本には、殆ど居ないと思い知るだけだった。

北国街道 自転車旅 完結編 中山道の追分宿から北国街道で高田宿までを行く2 善光寺宿~高田宿


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2020年8月の約3年前の、遠い日に置き去りにした

北国街道の自転車道中の物語。

三度笠を着けた、ロンリー旧道ボーイのみらい三度笠の翡翠色の勾玉の男の夢は、

道中2日目の今日に、新潟の高田宿に着き完走する事だ。

北国街道の相原宿の中農の子として生誕した、小林一茶の俳句にある

 雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

は、北国街道の大名行列や、馬で運んだ金の運搬の風景を詠ったったものだろう。

北国街道は佐渡ヶ島の金山から採掘した金を、江戸まで運ぶ道でもある。

佐渡島の金山で食べれる、金箔アイスは金箔料理界で最安値ではないか!?

上下の画像は別の道中の、佐渡島一周サイクリングの時の写真です。

今日は北国街道の道中2日目の朝となる。

 

昨日の道中の最後に疲れた状態での丹霞郷までのヒルクライムは、8月の暑さで

かなり疲労したが、今朝は朝食に何時ものように納豆を食べて、腸内から健康管理を

している。

今日は元気な状態で信州中野IC付近の宿から、昨日の丹霞郷への急斜面を登りに再び向かう。

昨日見た大きい牛の像を見学して、丹霞郷のリンゴ畑の坂道を登る。

宿泊地の下界から、グイグイ登り綺麗な空気の丹霞郷までの急坂を呼吸は荒いが

昨日よりあっさり登れた。朝の雲の北信五岳も輝いて見えた。

此処から、昨日の北国街道の自転車道中を再開する。昨日の続きの登りは直ぐに

峠の頂上になり牟礼宿までは、ダウンヒルでかなりスピードが出やすい。

勢いを抑えるブレーキングでダウンヒルをした。

平出追分という場所を、何時の間にか通過していたらしいが、

動画からの写真 牟礼宿の付近は急勾配の下り坂。

牟礼宿御本陣跡  現在は本陣の建物は無く駐車場だった。

追分宿から北国街道の距離は約85km

本陣跡から十王堂のある短い距離だが急勾配の十王坂を登ると、高さ2m位の背の高い

ヒマワリが咲いていた。

金附場跡 江戸時代に佐渡ヶ島で採掘された金銀を江戸まで輸送する為に

馬から馬へのリレーで、載せ替えをする中継施設。

史跡のマンガでの説明は、面白い。

その金を採掘する,新潟の佐渡島の金山の佐渡奉行所。 

江戸時代に金の精製は、この奉行所で行われて北国街道を通り江戸に送られる。

これは別の道中の2020年11月の、佐渡島一周の自転車道中の写真。

佐渡島での2020年11月の写真は此処まで、話は8月の北国街道に戻る。

牟礼宿から小間宿への明治時代の舗装路と、江戸時代の未舗装路の分岐。

動画の写真。江戸時代の北国街道を、700x25cのスリックタイヤの

カーボンロードで未舗装路の道中を続けるが、夏なので虫にタカられ鬱陶しかった

が、クマなどには幸い遭遇しなかった。

古間一里塚跡 古間宿に着く。約92km

俳人で有名な小林一茶の故郷はこの地で、一茶記念館があった。

50代で3回の結婚と6人の子供を作った、小林一茶の元気さを現代人は、一茶の俳句同様に学ばなくては、日本は少子化し過ぎて無残様に滅しそうでヤバい。

すぐに相原宿になる。約93km

美味しそうな焼きトウモロコシが、売っていたので購入した。

芯を持っての食いちぎるワイルドな食べ方の焼きトウモロコシは、

原始肉的な感じもする。

甘くてとても旨かった。

みらい三度笠は長年誤解していたが、太古に野尻湖に居たナウマンゾウと、

マンモスは別物という、生物学上の区別がなかった。

つまり、はじめ人間ギャートルズはマンモスの原始肉を食べてるのであり、

ナウマンゾウの肉は、食べてはいないとは知らなかった。

日本の本州にはマンモスはおらず、ナウマンゾウだけが生息していた。

北海道はマンモスとナウマンゾウが、混在して生息していたという事だ。

ギャートルズは北海道での話だろうか?

黒曜石の文化を日本各地に広めた縄文人ゲノム解析同様に、ナウマンゾウ

マンモスもゲノム解析で、古代の謎が解き明かされる日も来るだろう。

昔にゾウが踏んでも壊れない筆箱のcmがあったが、ナウマンゾウなら耐えられるが、マンモスではその筆箱は壊れてもマンモスは、ゾウではないので保証はしないかも。

古い話が多過ぎた。

野尻宿に到着した。約96km

野尻湖の湖畔で野尻湖の水に触れ、太古の1万3千年前この地に居たナウマンゾウ

存在に思いを巡らせた。

先を急ぐ旅なので野尻湖ナウマンゾウ博物館には、残念だが立ち寄れず再び北国街道の関川宿の関川御関所に進む。約100km

赤川1号スノーシェード 豪雪で道路が埋没しない為のトンネルが必要な程の

雪が降ると言う事だろう。

江戸時代の北国街道では、豪雪で除雪が出来ず通行止めになる事もあったという。

数か所スノーシェードを抜けるダウンヒルを終えると、関川御関所に着いた。

関川の流れる橋を越えると、これにて信越国境超えとなる。

すぐに次の宿場の上原宿になる。場所が良く分からず写真も無いまま通過してしまった。約100km

此処は田切宿 約103km
その次は二俣宿だが写真は無し。約105km

北国街道は次の宿場の間隔の距離が、中山道などよりも近い。

この妙高大橋の下に、旧北国街道があるのだが2020年8月の当時は

橋の架け替え工事の為に通行止めだった。

写真左のクレーンの下の先に名水100選の湧き水があり、大田切清水と呼ばれ

参勤交代など旅人の喉を潤した場所があるが、妙高大橋架け替えの為に工事中の新しい妙高大橋の下の場所には行けない。

北国街道から外れ旧妙高大橋で、大田切川を渡った。

2023年の現在は工事は完了しており、旧北国街道は通過が出来そうだ。

新潟の郷土料理の笹寿司でお昼ご飯にした。妙高市上越市糸魚川市で食べられる。

江戸時代の北国街道の道中の食事らしい、現地の郷土料理は美味しかった。

笹の葉には殺菌効果があり、今はサランラップだが昔は、おにぎりなどの飯を

笹の葉で巻いて携帯をした。

ストーブ並みに熱い8月だったので、おやつにアイスを食べた。

もう少し先で次の宿場の関山宿になる。

関山宿に到着した。 約110km

 

二本木宿    約115km 二本木駅スイッチバックで進行する。

小出雲坂 かつては松並木の道で「越後見納めほろと泣いたをなんじ忘れられよ」と

里歌に歌われた。昔は高田平野や日本海が見えたそうだが、松並木も無ければ

高田平野も日本海も気が付かなかった。

新井宿に到着。約121km

新井宿本陣跡 道の向かいに高札場跡がある。

今回の道中の目的地の、北国街道の高田宿に到着した。 

追分宿からの距離は約131kmの、かなり江戸時代の道筋の自転車道中だった。

高田宿は3m以上の豪雪の為に、雁木という木のアケードの通路が街に張り巡らされている。そして2020年8月のこの道中では、街の軒先の全てに飾られる大量の風鈴が

響き渡り、鈴の音であるが故に不快ではなく街の空気を涼やかな物にしていた。

江戸っ子のみらい三度笠は、風鈴の音色は江戸風情を思い浮かべる。



東海道中膝栗毛」やじさんきたさんの、作者の十返舎一九の作品

「諸国道中金の草蛙」に登場する歴史ある、飴屋で土産を購入した。

伝統的な和菓子かと思いきや、グミみたいな現代的なイマドキな味と食感なので

ナウなヤングのみらい三度笠にも、まろやかで美味しい。

お馬出しの辻

高田城 家康の六男 松平忠輝の居城として慶長19年(1614年)に建てられた。


デザインが独特なJR高田駅

雁木通リにある、旧今井染物屋 市が文化保存の為に所有する資料館。

この時点の道中は見学が出来ない事が多い。 

瞽女ミュージアム高田 盲目の女旅芸人の人生が分かるミュージアム

こちらの付近の上越本町七丁目が、北国街道と北陸街道の分かれ道である

北国街道追分となる。

北国街道の中山道追分宿から高田宿まで、約131kmの道中を終えた次は

北陸街道の自転車道中の始まりとなる。

北陸街道のここから中山道の合流地点の、鳥居井本宿まで約397kmの距離だ。

 

今回の道中は明日に糸魚川まで、北陸街道の日本海側を走って終了するので

今日は北陸街道の中屋敷宿の、直江津駅付近まで自転車道中をした。

北陸街道の宿場の中屋敷宿を通過する。高田宿から約4、13kmの距離。

高田と直江津が合わさって、現在は上越市と呼ばれる場所の加賀町にある加賀街道の

史跡説明の看板。かつては参勤交代など物流などで賑わっていた。

みらい三度笠の自転車道中では、はじめて御江戸東京から新潟上越市日本海まで

走破して眺めた居多ヶ浜ノ海は、自分の力で訪れたので感慨深い。

2020年8月の北国街道の自転車道中記は之にて、一件落着なり。

この道中の中山道合流地点までの続きは、先に書いてしまった2022年5月の

北陸街道自転車旅で完結します。