みらい三度笠の道中ブログ

みらい三度笠が道中をします。

美濃路  萩原宿~稲葉宿~名古屋宿~熱田宿・宮宿 自転車 吉例街道 shogun そして伝説へ3

 


 令和4年 2022年5月の美濃路の自転車での道中記です。

新潟県糸魚川宿から北陸街道・北国街道を江戸時代の旧道でカーボンロードバイクの自転車旅を続け、北陸・北国街道の中山道との合流地点の鳥居本宿までの道中を5日間で完走して、5日目にそのまま続けて鳥居本宿から美濃路の垂井宿に移動した。

美濃路道中を垂井宿から出発して、起宿の先の一宮まで糸魚川宿から5日目で到着したのが前回までの道中記。

美濃路自転車道中は2日目で遂に、今回の長い道中は合計6日目で熱田宿・宮宿に

到着し東海道と合流して、この長い道中も無事に完走となる。

昨日の宿泊地の一宮駅の付近から、日光川付近の美濃路に復帰して道中を再開した。

雨は降ったり止んだりを繰り返しの為に、上下セパレート合羽は着たままの道中だが

東レの生地は揮発性が高く、蒸れずにサラッと快適だった。自転車は合羽のズボンの裾がチェーンオイルで黒くなり取れない、股の部分がサドルと擦れて縫い目の

シームテープがダメになり染みる。高いゴアテックスは勿体無いので、セブンイレブンのポンチョが、ていへんだぁYouTubrの勧め。

日光川を渡り美濃路道中を約30km目に萩原宿に到着した。

美濃路萩原宿問屋場跡の碑

美濃路萩原宿本陣跡の碑

萩原宿は美濃路と巡見街道が交差している。巡見街道とは江戸幕府による各藩の巡回

調査を行う巡見使の通り道の名称。萩原宿は巡見使の宿泊地だった。

時代劇の大江戸捜査網の隠密同心ではなく、公に巡見を行なっていた。

萩原宿は宿場の距離が短い宿場だった。

萩原宿では、全国選抜プロチンドン祭りが開催されている。

チンドン屋の発祥の歴史は古く、弘化期(1845年頃)に飴勝という人物の

飴売りの宣伝から始まった。

高木の一里塚跡を通過し光堂川を渡ると、美濃路の曲がりが多くなる。

江戸時代の宿場の道の造りで曲がりは、敵軍の勢いを落とす場所として作られる。

ほぼ七曲りのような美濃路の先は、稲沢市稲沢の稲葉宿に至る。

右つしま道と書いてある石碑

稲葉宿にある、右つしま道の石碑には埋没しているが三里と書いてある。

右つしま道

右つしま道は、この先は矢合(やあわせ)勝幡(しょはた)津島(つしま)への道

木曽川の大洪水とその支流は1400年までは佐屋川の上流に萩原川から流れる

天王川があり其処が津島湊があり栄え、かつては桑名に向かう四里の渡しだった。

その後天王川は土石が川底に溜まり水位が上がる河道閉塞となり埋め立てられて、萩原川と日光川に接続された津島湊から1785(天明5年)佐屋川街道の佐屋宿が栄え

佐屋川の三里の渡しとなった。約36kmで稲葉宿に到着した。

 

稲葉宿問屋場

稲葉宿の酒造

稲葉の街並み

稲葉宿の街並み

稲葉宿本陣跡ひろば

稲葉宿は稲沢と小沢の両村で、宿駅業務を行う合宿だった。

飛鳥・奈良時代の頃より不破関の垂井宿の美濃国府から、ここ稲場宿の尾張国府稲葉

そして東海道に至る道が美濃路の原型となる。

稲葉宿本陣跡ひろば

写真の撮影中に風が吹いただけで、軽いカーボンロードは立て掛けてもすぐに倒れる。

まさに風が吹けば桶屋が儲かるそのものなので、

カーボンロードにママチャリスタンドを付けたい!?

稲葉宿本陣跡ひろば

このご時世の近年に、江戸時代の史跡が再現された貴重な施設。

稲葉宿の周辺地図

稲葉宿の案内板

稲葉宿本陣の間取図

稲葉宿の当時の絵

国府宮神社(こくふみやじんじゃ)一之鳥居

国府宮神社は一之鳥居より参道の北に鎮座する尾張国府の総社で

総鎮守の尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)。

その別名が国府宮神社で、はだか祭りはニュースで良く報道される。

先を進み七曲がり縄手を通過しJR東海道本線の線路を越え、美濃路と岐阜への道の岐阜街道との分岐の、四ッ谷追分がある。付近に一里塚を示す石板がある。長良川で採れる鮎を鮨にして将軍に献上したので岐阜街道は鮎鮨街道とも呼ばれた。清須宿に入る。

美濃路は街中に結構あちこちに道筋の地図があるので道に迷わず助かる

道中約43kmで清須宿となり、この手前に清須代官所跡があった模様。

公園のトイレは豪華な作りの厠

雨は降ったり止んだりで、白いカッパを着たままでMS(みらい三度笠)

なまこ壁の厠に行きまーす!ドア板も壁も大理石で重厚な造りの厠だった。

清須宿本陣

 

清須宿本陣跡

 

清須宿本陣説明

江戸時代は美濃路で最も格式の高かった清須宿本陣跡。

清須宿の札ノ辻跡

 

鍵形の曲がり角には高札場が立ち、清凉寺の前が札ノ辻と呼ばれた。

美濃路清洲城

清須公園は美濃路にある、本当の清洲城跡で五条川が流れる。

この写真の石碑の右奥の東海新幹線の橋の奥に見えるのが、清洲城清須市の市政

100年記念で建てられた清洲城模擬天守閣で、立地と形状は清洲城の史実と異なる。

見学に行きたいが、立ち寄る暇の無い道中なので見物は出来ず。

清須市市政20周年記念のイラストは織田信長 鳥山明氏の作品

この作品の発表後にまさかの清須市出身で在住の、

故・鳥山明氏の夭折が報じられた。合掌。

清洲城跡の前に流れる五条川を渡る五条橋

清洲宿には五条橋があり、この先の名古屋宿には五條橋がある。条と條で紛らわしい理由は尾張国の中心地だった清須の城下町がまるごと、尾張から名古屋への移転をした。

その「清須越し」は徳川家康が慶長17年1612年から、元和2年1616年に

行った名古屋城築城と、碁盤割の城下町で発展を遂げた。

その名残で清須宿の五条橋と、移転先の名古屋宿に五條橋が存在している。

昔は清須宿も清須だったり清洲城だったりハッキリしないようだが、現在は清須という地名となった。

前田利家とまつの説明文

須ヶ口一里塚跡

新川は庄内川と五条河の洪水対策の水量調整の為に、1784年天明の治水で作られた

人工

の川

新川の治水の歴史

須川護陣屋跡 

新川の新川橋西詰めに、清須川護陣屋跡があり清須宿の高札場があった。
津島街道の起点を示す古い石碑もあり、津島街道が名鉄津島線に沿うように津島駅

天王川公園まで繫がっている。1400年頃に佐屋川に繫がる天王川が土石の滞留で

河道閉塞により港が廃止されるまで、船着き場の津島湊が廃止されるまで熱田宿・宮宿より桑名宿への四里の渡しがあった。その後、佐屋街道の三里の渡しとなる。

西枇杷島石碑

屋根に屋根神様を祀る家屋のある、町を通過する。

西枇杷島(にしびわじま)橋詰の庄内川の前に美濃路の石の道標は文政十年(1827年)に旧枇杷島橋小橋の袂に建てられた。

石碑に書かれてる内容は、にしハつし満(ま)てん王(のう)うきよす宿みち

飛(ひ)がしハとうかゐたうなごや道 文政十年丁亥七月吉日い主(わ)くら道

尾張名所図解を立体化した石造

尾張名所図解に描かれる絵を立体化し石像にした、にしび夢だいこんの像。

江戸時代は青物市場として栄えた。

枇杷島

名古屋市西区枇杷島から庄内川枇杷島橋で渡ると、欄干に尾張名所図解の

枇杷島橋の銅版画があった。

庄内川枇杷島橋で渡った清須市

渡った先は清須市西枇杷島町となる。庄内川を渡っても枇杷島が続くのはしょうない。

 

白山神社 押切榎権現

美濃路の榎白山神社、押切榎権現で、織田信長豊臣秀吉と共に桶狭間の戦いの前に

戦勝祈願をした神社。

美濃路掲示される榎白山神社の説明版。

押切町樽谷屋町の大木戸跡

美濃路道中を約53km目で、名古屋宿に着くと宿場の大木戸跡がある。

名古屋城城下には3つ大木戸があった。大木戸とは城下町の治安維持の為に夜間閉められる大きい木戸の事で、美濃路には2つの大木戸があった。その1つが押切町と樽谷町の大木戸跡で現在は、江川どんぐり広場になる。

美濃路は幅下公園となごや小学校を通過している。

付近に消えた一里塚があったらしい。

名古屋宿の名古屋城の城下町に到着した。

名古屋宿に江戸時代は名古屋宿本陣や脇本陣などは無く、諸大名は御三家に配慮して

名古屋に宿泊はしなかった。中山道の高崎宿も本陣が無かったと思い出した。

名古屋東照宮には、訪れる時間が無かった。

五條橋の石柱 南 宮宿 東海道

真新しい五條橋の道標石柱

弁慶湯跡

かつては盛り場だった五条橋たもとに、弁慶湯という銭湯があった。

みらい三度笠はサイクリング途中に、足湯や入浴をすると眠くなり道中が終了してしまうので道中の終わりまでは入浴をしない。

円頓寺アーケード商店街

 

美濃路五條橋から少し寄り道してみる。

貞松院下屋敷

円頓寺商店街

金の織田信長

こういうのが見たかったので、寄り道したのは正解だったようだ。

 

銀の豊臣秀吉像は笏(しゃく)の棒が欲しい

徳川家康像は居ないようですが再び、幸せを訪ねて美濃路に戻ります。

カリオストロの城・・・じゃなくて名古屋城の城下町の四間道(しけみち)。

四間道

四間道は慶長15年(1610年)徳川家康加藤清正福島正則ら大名達に命じ

名古屋城の築城と共に開削された堀川を作る。その舟運を利用し発展した商人の町。

四間道説明

後の元禄13年(1700年)の大火で延焼を防ぐ為に四間道(7m)幅の道幅にした事が四間道の由来と呼ばれる説もある。

伝馬橋

大須観音への仁王門通りアーケード

名古屋城

古渡町交差点の古渡一里塚跡を探したが、見当たらず桜の木が目印らしい。

古渡一里塚付近の和菓子

江戸時代末期の寛永元年(1848年)より続く老舗の和菓子店の

イートインで一休み。和菓子の見た目も味も丁寧だつた。

その先は金山新橋南交差点の佐屋街道への美濃路との分岐点の道標がある。  

佐屋海道とも呼ばれた。

佐屋街道

美濃路佐屋街道は、熱田宿・宮宿の東海道から此処までは同じ道である。

みらい三度笠は初めて東海道五十三次のお江戸日本橋から京都までを

自転車道中をしたのが2010年12月だった。

その後3回は東海道五十三次を自転車で走破し、徒歩での東海道五十三次は1回の合計4回の実績であるが、旧道道中的にはまだヒヨッコレベルらしい。
宮宿・熱田宿から桑名宿への道中は江戸時代は七里の渡しの船旅だからと、国道1号からか、電車移動ばかりで、今まで佐屋街道を時間の節約で佐屋街道の道中は未走破だった。

金山駅を越えると東海道中で見慣れた、風景の広い道幅の車道R22線の美濃路になる。

美濃路で熱田宿・宮宿に遂に到着をした。

 

源頼朝の出生地

源義朝熱田神宮の大宮司である、藤原季範の娘の正室の由良御前との子である

源頼朝が此処で出生した。初代征夷大将軍と言われる。

門のみ残される。

熱田神宮鳥居

熱田宿・宮宿の熱田神宮に到着をした、

今回は北陸街道で越の国から中山道合流の鳥居本宿を終えて、そのまま美濃路の垂井宿からの熱田宿となる。

これで5回の熱田宿に道中をしたことになる。

6日間の道中が体調も良く、メカトラブルやパンクも無かった事に感謝した。

かつての源太夫社(上知我麻神社)の場所付近

美濃路を垂井宿から熱田宿・宮宿まで走り、東海道との合流地点で約59kmの

美濃路の旅は終わった。

(江戸時代の美濃路の全長は、14里24町15間約57,5kmある。)

今回の北陸街道の約290kmと美濃路の約59kmで約349kmを

5泊7日の江戸時代の道を辿る道中が終わった。

七里の渡しで、この美濃路を本当に完走する。

東海道中だけではこの意味への理解が薄かったと、美濃路道中で分かった

なじみの東海道の道標

東海道五十三次道中で見慣れた、東海道の道標を見るとホッとした。

七里の渡しの時の鐘

熱田湊常夜灯



七里の渡し船着き場跡

熱田湊の七里の渡しはこれで5回目だ。

北陸街道・北陸街道の糸魚川宿から古事記に記載されるヤマタノオロチ伝説の越の国を出発し北陸街道と中山道の合流地点の鳥居本宿に到着し続けて、雨が降る美濃路

垂井宿から熱田宿・宮宿までの道中は三英傑達の吉例街道であるばかりではなく

日本神話の伝説を追う様に完結した。

帰り際の昼飯に名古屋の間延びする物言いの味噌煮込みうどん屋に、うどんではなく、短く切れたすいとんモドキを出される嫌がらせを受けた。名古屋は相変わらず商いでもマウント志向の観光地だと思った。

古の伝説の時代からの戦国の世の頂点を目指した武将達の、吉例街道での生きざまを史跡で辿る様な道中であった。

その後、新幹線で江戸のワンルーム裏長屋に戻った、うだつの上がらないていへんだぁYouTubrのみらい三度笠には美濃路こと、吉例街道の道中が人生大逆転街道の

旧道流離譚と成ったかは、分からないそうじゃ。

めでたしめでたし。
おしまい。