2020年5月に自転車で中山道の追分宿より、北国街道を高田宿までを完走した。
まだ未発表の、その道中の話はYouTube化する予定だったが2年以上過ぎて
制作をする時間も無いので、このブログで今後に書く予定です。
その北国街道の高田宿までの道中から、約2年後の2022年5月に再開した
北陸街道の道中がこの記事となります。
前回からの続きの始まりです。
前日は朝から全力で走り夜の8時に木之本宿に到着という、きつい日程のお陰で
今日は余裕を持ち午前中には鳥居本宿に到着が出来る。
北国街道、北陸街道を中山道で繋ぐ旅も、約2年越しで遂に完走する事が出来る。
最終日の朝から、木之本宿を出発する。
此処は北国街道の鎌倉時代(約800年前)に十郎橋(寿老橋)という大きな石の橋が架かっており、栄えていたという石碑がある。
長浜宿はモダンに綺麗な街並みだった。木之本宿から長浜宿まで約17km
戦の時は道路の脇に、建物の陰に武者が隠れていた近江長浜の街。
10m間隔で道路脇に、武者の看板人形が隠れずに居ます。
旧中魚屋町通り。
江戸っ子のみらい三度笠には、西日本の商店街は古くからの商業地帯の歴史を
感じさせ興味深い。
黒壁スクエア近辺は、ガラス細工が名物となるレトロな街並みをモダンにリフォーム
した建物が多く、ゆっくり観光で見物をしたいがまだ開店前で店は閉まっていた。
北国街道を外れて、この案内板につられてヤンマーのボートを見学した。
北国街道の歴史で活躍した、北前船や琵琶湖の丸子船という船による物流が
主流だった江戸時代から、明治時代の近代化で鉄道や車に主流が変わっても
このカッコイイ船は長い水運の造船の歴史が、現代の造船技術に繋がると分かる。
今回の北陸道中終了後の写真です。これが琵琶湖を航行していた、丸子船の像である。
そして北国街道の道中で、米原湊の歴史を理解出来る場所に着いた。長浜宿から米原宿まで約12km
何故か米原宿に北陸道中山道分岐点道標がある。本来は北陸道と中山道との合流地点は摺針峠の峠越えで、鳥居本宿の前に米原宿で北陸街道と中山道の番場宿から合流する。
ここの米原宿での中山道との合流地点は、関ケ原の合戦の後に彦根藩が
北村源十郎に工事を任せ、中山道番場宿から北陸道の米原湊を結ぶ深坂道を工事をして慶長十六年(1611年)開通しその後、発展を遂げて人口増加で、米原宿が
天保十四年(1843年)に誕生した。
当時は美濃や尾張からの荷物を、深坂道で米原湊に集荷をして丸子船で大津から京都へ運搬された。
米原宿の石道標は旅館かめやの前にある。
そしてその先に進むと、未来三度笠の2020年5月の中山道自転車旅でも訪れたが
その当時は夜になり風景は闇夜の中を通過した、鳥居本宿の中山道北国道分岐点に2年ぶりに着いた。
こちらは中山道の番場宿から摺針峠を越えて、鳥居本宿で北国街道と合流をする。
ニホンザルの群れが居たが、ボス猿らしき猿は群れが茂みに隠れるまで
こちらを見ていた。
遂に2年越しで、中山道の追分宿から北国街道、北陸街道を走破して
ハンドルの右ブレーキ下の折れかかった状態も、なんとか耐えて折れなかった。
今回は未知の道中で、知らなかった日本海側の多くの海運、水運の江戸時代まで主流の
文化や歴史や知識を、知る事が出来た事が大きな収穫の道中だった。
鳥居本宿の文化財指定されている有川薬局(赤玉神教丸本舗)江戸時代から下痢、服痛などに効く赤玉を販売している。
この倉庫の扉は鳥居本本陣の、名残の門扉とのこと。
これは、中山道から数えた場合の宿場の番号だ。
北陸・北国街道糸魚川宿から鳥居本宿まで約290kmが今回の2022年5月の道中の
おざっぱな距離。以前の2020年5月の始まりの北国街道中山道の分岐点の
追分宿からゴールの鳥居井本宿だと約540kmだろう。
これにて一応おしまい。そしてこの日はまだ終わらない新たな道中の続きが始まる。
北国街道、北陸街道を中山道と繋いだ道中の続きは、もう少し先に書きます。