自転車
今日は楽しみにしていた中山道の難所である十三峠の石畳やダートを、
今までの25cロードタイヤと違い、700x32cのシクロクロスタイヤで、思う存分走破する事が出来る。
昨日、自炊した炊き込みご飯を朝飯と弁当にして馬籠宿を出発した。
予想通り交換したシクロクロスタイヤは舗装路では、抵抗が大きくアスファルトでは
スピードが乗らず、登りでは遅いので使いたくない。
しかし、しばらく下り坂が続き落合の石畳では、今までのロードタイヤでの苦労が何だったんだ
と言う程の、ラクちんな走破性能だった。
石畳のハンマーのような衝撃も、さすが32cのシクロタイヤだなんともないぜ!
おかげで簡単に落合宿に到着した。今までの山岳部のロードタイヤが愚行だとよく分かった。
文久元年1861年に皇女和宮の大通行時には、この落合宿に4日で約26000人も通過したので各家庭で、窯を炊き暖かい物でおもてなしをしたと言う。
中津川宿に到着をして桂小五郎の隠れ家もを見学をした。
隠し部屋がこの街の文化とは、忍者屋敷と言う事か。
ここで和菓子を食べてエネルギーを補給してから、甚平坂を登るが未来三度笠の着ている甚平が脱ぎたくなる暑さになった。
ヒルクライムの途中に私に対して何故か感じの悪い人が居た。私は甚平着用なのに!?
中山道中ですれ違う人々で、私の中山道の自転車旅行を否定的なのは大概は男性である。
素直に感心して応援するのは、だいたい旅行者も含めて女性で道中、結構食べ物を頂きました。
今後、中山道の古い案内道標などが更新されるか益々心配になる。
大井宿に到着し本日の難関、十三峠越えの始まりである。
登り始めると、林道の入り口のど真ん中に部屋の飾りの鹿の首が土台付きで白骨化して転がっていた。
和田峠から二回目であるが、クマの危険性への警告を誰かがしているのだろうか。
私はクマよけにラジオを鳴らすが山深いので音声が出ず,UFOの宇宙人じみたノイズを大音量でまき散らす。
キャトルミューティレーションをクマが恐れるかは不明であるが、これしか方法は無い。
しかし、シクロクロスの走破性は素晴らしく、疲れて苦痛でしかないロードタイヤでの岩場や石畳が楽しくてしょうがないが、調子に乗ると転倒して行動不能になりクマの餌にもなるので
油断禁物だ。
首無し地蔵という道中の安全祈願のお地蔵様を過ぎ、
権現山一里塚では人の気配があり近くのゴルフ場の黄色いボールが転がっていた。
高い走破性のお陰で予想外に早く十三峠が終了をしたので、ダート区間が終わったと勘違いをした。
ちなみに未来三度笠はハイカーと山道で、すれ違う時は自転車からほぼ下車しております。
大湫宿の休憩所で接客してもらい、お茶を頂いた。
ロード用サイクルラックがあり、十三峠を越えて用済みのシクロタイヤからロードタイヤに戻す作業がし易かった。
チッソガスボンベで手早く空気を入れたが、TĪNのボンベの一本はガスが入っていなかったのでしょうがない、インフレーターで空気を手動で入れて、シクロクロスタイヤはすぐにここから郵便局で自宅へ郵送した。
大湫宿の神明神社の神明杉は樹齢約1300年で二つに分かれている。
その後に琵琶峠に向かい、中山道かえで街道を走るがまたダートコースになる。
シクロタイヤを25cのロードタイヤに戻してしまって後悔をした。
今から後半に疲労が激しくなっての、タイヤ交換はキツいのでまあ良しとしよう。
しかし、琵琶峠はガッツリの石畳でロードタイヤを迎えてくれた。
再び中山道の最後の未舗装ハイキングコースの御嶽宿に進みます。
馬の水呑み場、など中山道を歩くと江戸時代は馬が当時は物流のトラックだと言う事が分かる。
駄馬と言うのは本来、荷物を運ぶ馬の意味で速く走らないだけで有益な馬の事だ。
駄賃も馬子が運搬仕事のついでにする小遣い稼ぎで、それ程に当時は馬との強い関わりを感じる中山道中だった。
謡坂の石畳を過ぎ、牛の鼻かけ坂の先は最後の林道区間がアスファルトの国道に合流する。
今日もハードな道中だったが順調に日暮れ前に伏見宿に到着した。
木曽川を渡り太田宿で宿泊地に到着した。
日も暮れたのでショッピングモールアピタの(2020年10月の現在はメガドンキ)、半額品で買い過ぎたが夕食にした。
長々と続いた楽しい中山道中生活も、あと2日となるがこのまま旅をずっと続けたくなる。